アイゼクト・フロー 
「ふふん！そうだろうそうだろう！」
「えぇ…聞こえないよぉ…」
「ょ…良かったらぁ…受け…取ってくd…下さいぃ…」
設定
名前：アイゼクト・フロー (Ayxect Flow)
年齢：30 17
性別：女
職業：九頭龍街データセンター職員・受付 / 情報ブローカー
身長：157cm
体重：46kg
好きなもの：相棒、賞賛
嫌いなもの：不測の事態、裏切り
一人称：僕
二人称：キミ
三人称：彼、彼女
年齢：
性別：女
職業：九頭龍街データセンター職員・受付 / 情報ブローカー
身長：157cm
体重：46kg
好きなもの：相棒、賞賛
嫌いなもの：不測の事態、裏切り
一人称：僕
二人称：キミ
三人称：彼、彼女
人物
AyxectはEcstasy(狂喜)のアナグラム
Flow(風に靡く)はwolf(狼)のアナグラム
見た目通りのクールで狡猾な大人のお姉さん。顔が良い。
仲間内でのほぼ最古参という事もあり、ベテランの知見とズル賢さを兼ね備えている。
若く血気盛んな他メンバーを諌め、纏め上げる存在…
……だと本人は思っているが、
実際の所、読みが外れたり間違いを指摘されると途端にクソザコになる。
若い時の病気はスメラギテックの最先端治療で完治しているものの
後遺症で筋力などが落ちており、表立った戦闘が苦手になっている。
普段は九頭龍街のデータセンターの受付をしており、子供らの性癖を歪めてそう。
裏で仕入れたブラックデータは次百に販売したりしてる。
また、チームロゴのデザインは彼女が行った。
【妄現物語】
Flow(風に靡く)はwolf(狼)のアナグラム
見た目通りのクールで狡猾な大人のお姉さん。顔が良い。
仲間内でのほぼ最古参という事もあり、ベテランの知見とズル賢さを兼ね備えている。
若く血気盛んな他メンバーを諌め、纏め上げる存在…
……だと本人は思っているが、
実際の所、読みが外れたり間違いを指摘されると途端にクソザコになる。
若い時の病気はスメラギテックの最先端治療で完治しているものの
後遺症で筋力などが落ちており、表立った戦闘が苦手になっている。
普段は九頭龍街のデータセンターの受付をしており、子供らの性癖を歪めてそう。
裏で仕入れたブラックデータは次百に販売したりしてる。
また、チームロゴのデザインは彼女が行った。
【妄現物語】
【0歳〜13歳頃】
アイゼクト・フローはソビエトの崩壊と共にシベリアの寒村で産声を上げた。
当時の世界情勢として、資本主義と共産主義の諍いによる冷戦は下町以外の諸外国経済に大規模な打撃を与えていた。
当然、それは体制を崩しかけていたソ連の胸元に、鋭利な刃物をじわりじわりと沈め刺したと言っても過言では無かった。
あまり裕福では無い家庭に生まれたアイゼクトは、まだ瞼も開かない乳飲み子の時期、家庭の財政状況の苦慮により、
大量の毛布、そして極少量の腐肉と共に北部の山間森林へと捨てられた。
肉と共に赤子を森へ捨てる、その行為が意味する所の酷薄さは、聡慧なる皆におかれては時を移さずとも理解しただろう。
悪逆無道なその父母らは、彼女の"処理"を"森の番人"へと投げ捨てたのである。
当時、北部では厳しい冬に備える為の燃料確保の為、政府による破壊的な森林伐採が相次いでいた。
森林区域の減少に伴い、追いやらられた動物達は次第に生息範囲を狭め、収束していく。
そうした中で生まれるのは動物達による小競り合い・縄張り争いである。
厳しい寒さの中、冬眠を行わないシベリアオオカミの群れはすぐさま頭角を現した。
シベリアオオカミは約20匹の群れで集団生活を営む。
それぞれ役割は分かれており、群れを率いるリーダーの狼、狩りを行い集団を支える狩狼グループ、
そしてまだ幼い子狼を立派な成狼に育てる母狼グループがある。
ある日、狩狼グループが食料を拵えに麓へ降りると、匂いを放つ腐肉と共に赤子が捨てられているのを発見した。
アイゼクトである。
明らかなヒトの残り香はあるものの、美味そうに強烈な匂いを放つ腐肉、そして柔らかな稚児。
まるで天からの巡り物とも言えるような好条件で食料を見つけた彼ら。
しかし、それに牙を立てることは母狼達が許さなかった。
哺乳類はしばしば他動物の赤子に愛情を示す事がある。
この例もそれと同様だった。
兎にも角にも、アイゼクトは末娘として狼の群れへと迎え入れられたのだ。
常人にでさえ厳しいシベリアの地は、剥き身の人が数日と生きるのも難しい。
しかし、彼女は懸命に生きた。いや、狼の家族の手により、懸命に生かされたという方が適当だろうか。
群れは少しずつ温暖な地域へと移住した。
アイゼクトが齢五つになる頃には、彼女はシベリアより幾分も暖かな森林の中で、狩狼達と狩猟をする様になった。
狩狼達が獲物を追い立て、隙を縫ったアイゼクトが木々の上から降り立ち、息の根を止める。
彼女らのコンビネーションは、本来お互いが為し得ない動きをカバーするものであり、
技術は互いの信頼感と併存し、高まる事を止めなかった。
しかし、平穏とは微妙なバランスの上に成り立つものである。
ある日それが音を立てて崩れたとしても、我々に抗う術は無い。
狼は鉛玉により駆逐され、アイゼクトは拘束された。
いつもの様に狩りを行っていた彼女らは、迂闊にも軍事演習中の兵士を襲い、返り討ちにあったのだ。
ロシア軍部の恐ろしさは、ソビエトの過去を鑑みるに想像に難くない。
表向きには解体されたKGBであるが、その意向を汲む軍がこの後少女に施す教育など、
オルゴンの人体実験に比べれば歴史の闇に葬る事など容易かった。
それから約8年後、嘗ては野生児・狂狼の汚名を着せられていた少女は、身体能力の高さと地頭の良さを見出され、
青年将校隊のエリートと混じり、国家保安局に所属していた。
与えられたコードネームはルプス。皮肉にも狼の学名から取られたその名前を、彼女はあまり快く思っていなかった。
仕事内容は体躯や容姿、知性を生かした諜報、潜入、暗殺…。
産まれてから群れ社会の一員として弱肉強食の狩猟生活に身を置いていたルプスにとって、
それらは生命活動の延長線上にある行為であり、なんら努力の必要の無い作業であった。
青年将校隊の中でも、上を脅かす程に優秀。
しかし、それ故の嫉視を見逃していたのは迂闊だった。
その日の作戦は海を越え、下町への強化血清密輸任務だった。
密輸とはいえ、商業タンカーの船員になりすましてジュラルミンケースを運び込むだけの簡単な任務。
当然単独での遂行を申し出たが、同期の仲間内数人が参考にと同行を申し出た為、
やむ無く4人でのオペレーション遂行となった。
そして、ボストチヌイを出港して3日の深夜。
事件は起こる。
航海の仮眠中、首筋に痛みを感じて瞼を開いたルプスは朧げに歪む船内を見渡す。
隣の燃料室は相変わらず五月蝿い。
開いたカバン、赤、扁桃腺の炎症、鉄臭…鉄？
…状況整理。
嗅ぎ慣れたこの臭い。
急速に脳内の生産工場からアドレナリンが過剰投与される。
死体、ターゲットオブジェクト破損、血液、状況理解、絶句。
付近には開いたジュラルミンケース。
中のアンプルは無くなっており、自身の付近には使用済みの注射器と空のアンプルが1瓶。
ベッドには寝かされたままの死体が2体。いずれも仲間だ。
頸動脈を一閃されており即死している。
つまりこれは、プロの犯行。
導き出される結論イコール…仲間の裏切り。
思わず唇を噛み締める。
窓から見えるベランダでは、警告色の縄が風にたなびいていた。
此処には…脱出用のゴムボートが縛られていた筈だ。
油断していた。逃げられた。
大方、裏切った奴の筋書きとしてはこうだろう
「力を求めたルプスが味方を裏切り殺害。
強化血清を打った彼女に追い詰められたが辛くも自分だけは逃げる事に成功。その後、ルプスはそのまま下町へ亡命した。」
自身に時折怨嗟の眼差しを向ける者がいるのには気付いていた。
しかし、ここまでするとは。
狼の方がよっぽど理性的だ。
下唇を更に深く噛み込み、悔しさに震える。
自身の実力に驕りがあったのだ。
どうしよう、どうすればいい。身体は震えて動かない。
じきに見回りが来る。そうなれば終わりだ。
昔からそうだが、想定外の事態になると自分は急に弱くなる。
狼の家族が軍からの反撃に合った時、自分はどうした？反撃したか？
いいや、ただ焦るだけで震えてその場でしゃがみこんでいただろう。
軍の教育プログラムを受けた時、自分はどうした？教官に一度でも反撃したか？
いいや、ただ焦り、教官を怒らせまいと必死に優等生を演じたろう。
今はどうだ？
気付けば自分は耳を抑え込み、ただ震えていた。
私は、弱い。
ぐらり、唐突に視界が歪む。
次第に平衡感覚が曖昧になり、床と自身の境目が曖昧になる。
これは…精神的ショックによるものか？違う。明らかに違う。
…そうか、血清か。やはり投入はされていたらしい。
次第に息は上がり、首からは燃えるような熱が伝番する。
いたい、あつい、苦しい。
皮膚を見遣れば、狼に噛まれた様な赤い斑点が幾つも浮かび上がっている。
この症例は医療本で見た事がある。全身性エリテマトーデスだ。
英名は確か…システミック ルプス エリテマトーデスとか言ったか。
皮肉にしたってあまりにも、この上なく酷い仕打ちだ。
というより…血清じゃ無かったんだな。
原因不明難病のエリテマトーデスを人為的に引き起こすバイオ兵器なんて、下町に運んで何をするつもりだったんだろう。
明滅する意識のシグナルを必死に結び合わせて床を這う。
まだ誰かに見つけて貰えれば生存のチャンスはある。
流石にこんな重病人が人を殺したとは思わないだろう…
…懸念としては、感染症を恐れた船員から海に投げ捨てられないか…という所だが。
必死に冷たい床を這い、弱々しく腕を伸ばし、ノブを押し回す。
これで…なんとか…
カチリ
おおよそ、木製のドアには似つかわしくない嫌な金属音が響いた。
私には2つ、読み違いがあった。
1つは、結局自分は1人じゃ何も出来なかったという事。
もう1つは逃げ果せた裏切り者が自分にトドメを刺さないと思い込んでいた事だ。
…
下町湾沖の商船タンカー爆発事故の一報は、すぐに警視庁の敏腕刑事、杉本左京の耳にも入った。
聞けば深夜未明、沖数百メーターという所で商船が爆発事故を起こし、海に沈んだそうだ。
「(爆発事故…本当にそうでしょうか。)」
妙な胸騒ぎを覚えた左京は、埠頭に車を走らせた。
水平線に未だ立ち昇る黒煙を睨み、訝しむ。
商船が進水したのは5年前。決して古い船という訳ではない。
寧ろ、船の中ではかなり新しい方だ。
積荷は商業施設用に卸す為の食料品が主…。
可燃性のあるものは少々あれど、爆発する程のものは無かった筈だ。
やはり疑問点が多い。本当にこれは事故なんでしょうか？
働き盛りの男の眉間に、鋭く皺が寄った。
ふと、鋭い眼光の先に彼は何かを捉える。
黒く波打つ海面に、銀のブイがゆらりと揺蕩っている。
あれは？
この埠頭は静かに物事を整理したい時にしばしば訪れる。
今までの記憶を手繰り寄せる限り、そんなものを見た覚えは無い。
つまりあれは――。
目と脳が理解した瞬間、彼は荒波に飛び込んだ。
【妄言物語 14歳(前)】
【妄言物語 14歳(後)】
………
……
…
「……！」
ガシャン！
清潔感溢れるリハビリセンターに、軽めの金属音が響いた。
アルミニウム製の松葉杖と自分。それらが無様に重ね倒れた音だ。
ああ、くそ。ボーッとしてた。嫌な事思い出しちゃったな。
「ちょっ…大丈夫ですか！？」
冷や汗をかいた看護婦さんがパタパタと駆け寄って来る。
「立てます？さぁ私の腕に掴まって！」
「あー…スパシーバ…」
看護婦が僕にのしかかる松葉杖を手際良く除けていく。
「焦る気持ちは分かりますけどね…リハビリは安全・地道に！が鉄則ですよ！……って日本語分からないんでしたっけ…あはは…」
姿勢を正してくれた彼女は、おっちょこちょいそうな顔を朗らかに緩ませ、頭を掻いた。
「(…本当は分かるんだけどね。)」
ここは下町中心街の波間大学付属総合病院、現在の僕の住処だ。
肌寒く静かなロシアとは、まるで真逆の雰囲気だ。
あの海での事故の後、地元警察に運良く引き上げられた僕は、この病院に緊急搬送されたらしい。
全身の骨がバラバラに砕けていた僕は、件の商船との関連を疑われた。
…が、今日に至るまで特に追及が無いという事は、僕を救ったあの男が、都合良く疑念を払ってくれたらしい。
んまぁ…僕が記憶喪失者のフリをしているという所為も、多少なりともあるとは思うが。
『いやぁ、ホントに痛ましい事故でしたよねぇ』
『流出した重油の影響が…』
『海上皇軍の発表によりますと…』
天井から下がるテレビでは、数ヶ月前に起こったロシア商船沈没事故の特集が、ぐるぐるとループ映像のように流されていた。
世間的には乗組員は全員死亡。あるいは行方不明という事になっているらしい。
偽の乗組員として乗船していた僕はこの通り生きているし、僕を裏切った奴もサブボートで脱出している筈なので、その情報は僅かに誤りだ。
最低でも1人、或いは2人の生き証人が存在している。
だが、その真実を知るものは限りなく少ない。
「ほらあの子よ…酷いSLE(全身性エリテマトーデス)なのに海で遊んだか事故ったかして、運び込まれたって子…」
「あぁ、あの子がね…そういえば記憶も無くしちゃってるんだっけ？」
「そーそ。日本に居るのにロシア語しか喋れないなんて、担当の黒井先生も苦労してそうよね〜」
「ね〜！ほ〜んと、私達だってタダでさえ忙しいのに…担当に回されなくて良かったわぁ〜」
リハビリ室の角にある事務所で、いかにも暇そうな看護師達がやいのやいのと好き放題くっちゃべっている。
女によくある、薄汚いコミュニケーションだ。
フン、浅はかな奴らだ。
僕がロシア語しか喋らないのは、その方が色々と追及されず都合が良いからだ。
「…………」
僕は何も分からないフリをして、松葉杖を掴む掌に再び力を入れた。
とにかく今は、数か月間寝たきりだったこの体を復調させる事と、生物兵器による病を完治させる事がなにより先決だ。
ぐぐっと腕に力を入れると、骨が軋む。
かつて節っぽく力強さを感じた腕や脚は、今や見る影もない。
寒村の枯れ木の様に、吹けば折れてしまいそうだ。
滑らかに細く白んだそれらは、ひどく頼りなく見えた。
今まで性別を意識した事など諜報術の教育中くらいしかなかったが、
こうなってしまうと自分も所詮は惰弱な女だという事を嫌でも認識させられる。
幸い、SLEによる狼の噛跡の様な炎症は、首筋に少々残る程度に治癒した。
自分で言うのも何だが、見た目状はほぼほぼ普通の少女と言ってしまっても差し支えは無いだろう。
ただ一方で、内臓へのダメージが意外にも深刻だったらしい。
肺や心臓が、身体の動きに全くもってついて来てくれなくなってしまった。
ロシアに居た頃は、オデッサの階段という大階段を全力疾走しても息一つ上がらなかったが、今では階段で1フロア移動する度に休憩が必要だ。
情け無くて目元が潤む。
「大丈夫！焦らないでね、お姉さんがついてるよ！」
起こしてくれた看護師が、巻いた栗毛を揺らしながら心配そうに顔を覗き込んでくる。
うぅしまった、顔に出てたか。
ここに来てからというものの、殆ど触れたことの無い優しさを何度も受けてしまっている。
(うぅん…優しさって恥ずかしいんだな。)
僕は思わず伏し目がちに顔を逸らしてしまった。
「それに黒井先生も言ってたじゃないですか！明けない夜は無いって！」
彼女が口にした女医、黒井 凛々須。
僕の主治医だ。
形成・整形外科のプロフェッショナルであり、年齢不詳ながらもその妖艶さから男性人気が異常に高い。
噂では彼女に診てもらうためにわざと怪我をする者も居る程だとか。
…しかし、自分が知っているのはそれくらいだ。
この病院に勤務している人物のデータベースは既にインプット済みだが、彼女のデータはとりわけ少ない。衰えたとはいえ、僕の諜報能力をもってしてもここまで情報が揃わないのは彼女くらいだった。
…それはそうとしてこの看護師、私が日本語分からないと認識してるにも関わらず、滅茶苦茶話し掛けてくるな？
「それまでは私と一緒に頑張りましょうね！」
「…ダー…」
私はまんざらでもない表情を悟られない様に、俯いたまま、少しだけ頷いた。
「おや、存分に励んでいらっしゃる様ですねぇ」
不意に、背後から特徴的な抑揚をつけた声で語りかけられる。
振り返れば、そこには件の警察…僕を救った男が立っていた。
「あら、杉本さん！今日もいらしてたんですね！」
「えぇ、黒井先生にアイゼクト君のリハビリに関して、定期経過を伺おうと思いまして…。どうやら頑張っている様ですね。」
「ええ！それはもう！」
杉本と呼ばれた男は、銀縁の眼鏡の奥で僕へウィンクする。何と言うか、遊んでそうな男だ。
体型はひょろっと小柄に見えなくも無いが、スーツの隙間から覗くサスペンダーの浮き具合から、彼の隆々とした筋肉量が伺える。
…因みにアイゼクトというのは僕の名前だ。
事故後、彼から名前を聞かれた時に咄嗟に出たものだ。
まさか、組織でのコードネームを喋る訳にもいかないからね。
…ていうか名前なんて無いし。
このアイゼクトという単語は、捨てられた時に包まれていた毛布に刺繍されていた単語なのだが、何となく語感が気に入っており、今日まで使用している。
正直自分の名前なのか、それともただのメーカー名なのかも分からないが、前者だったら嬉しいと思っている。
「それでは、そろそろ面談の時間なので失礼致します。アイゼクト君も頑張って下さいね。…何かあれば、すぐにお知らせ下さい。」
彼は軽く会釈をすると、踵を返して出て行った。
見た目にそぐわずマメで低姿勢な男だ。
…それにしても、表向きにはただの事故被害者である僕なんかに、何故こんなにも構うのだろう？
…本当の身元がバレている可能性…無きにしも非ず、だ。
なんせ日本、それも下町の警察だ。
僕目線で見ても情報の収集能力は伊達じゃない。
油断はしないに越したことはないだろう。
「…ダスビダーニャ。」
僕はキュッと口元を結ぶと、再び足元に力を入れた。
…
……
………
カッ コッ カッ…
その日の午前2時。
深夜の病室では、時計の音のみが緩慢なタップダンスを許されている。
身体の節々は昼間のリハビリのせいで未だにヒリヒリと熱を孕んでいた。
日中に張り切りすぎたせいか、はたまた以前の訓練の賜物か、この位の時間になってもあまり眠くはならない。
スナイパーには72時間ターゲットに集中し続ける空想同一化という訓練があるが、諜報の訓練はそれに近い事もやらされる。
眠気の有無など、自分の意識でどうとでもなるのだ。
とはいえ、深夜の病院の空気が良いかと聞かれれば、当然そんな筈は無い。
喩えるなら、いくら払っても払っても粘り付いてくる蜘蛛の巣。
それに延々と捕らわれている感覚だ。
「……」
ベッドの上で、身体が痛まない程度に寝返りを打つ。
深夜の病院で一人だと、どうしても嫌なイメージが脳にこびり付く。
それは死のイメージであったり、おば…非科学的存在だったりだ。
「……眠るか」
こういう夜は無理矢理にでも意識をシャットダウンするに限る。
眠気を飛ばす技術があるのであれば、当然その逆も然りだ。
本来は拷問を受けた時に利用する手法だが、こんな所でも役に立つとは。
僕は目を閉じて深呼吸する。
脳内では体と精神の分離を意識し、それぞれを丸い型に流し込むイメージ。
この手法を極めれば、3度の呼吸の内にふっと意識を闇に落とす事が出来るのだ。
3…2……1………ん？
泥の様な眠気が意識を覆う直前、何かの違和感を感じ取り、ふと呼吸を止める。
背筋に極僅かなひりひりとした電気信号が走り、下半身がぞわぞわと強張っていく。
この感覚は…間違いない。何か、危険が迫っている時の感覚だ。
お化けとかそういう類いでは無い。
恐らく、敵意を持った何者かが近くに居る。
動物はある種の捕食行動を行う時、脳から微弱な電気信号を発しているらしい。
生存能力に長けた動物はその感応性が高く、鋭敏にその信号をキャッチし、難を逃れるという。
狼達と暮らしていた時は、この感覚に幾度も助けられた。
しかし、運動能力の著しく落ちた現状では、その感覚も黙示禄のラッパにしか感じない。
来るのが決まっているのならば、いくら劣勢でも迎え撃つしかないからだ。
「（どこか…不意を突けそうな場所は…）」
0.4秒で病室を見回し、備え付けの天棚が目に入った。
僕はその下の木棚に足を掛ける。
静かに、しかし確実に。
息を切らしそうになるのを必死にこらえながら天棚に潜む。
「(来るなら来い…)」
相手が何者なのかは分からない。
組織に生存がバレたのかもしれないし、日本帝国の工作員かもしれない。
誰にせよ、僕に害為す者なら排除しなければならない。
天棚に潜り込んだ数瞬後、チャリ…と静かに静かに部屋のドアノブが回った。
そのままキイッという音もなく扉が開き…ぬうっと白衣に身を包んだ大男が現れる。
手には謎のダクトテープを携え、顔は張り付いたような笑顔。
この男は…
シャカシャカと自分の脳内データベース内で男を照合する。
ああ、あった…こいつは小児科医のドウジマだ。
物腰柔らかくいつも笑顔。子供にも優しく通院患者には人気が高い。そんな男だ。
…が、盗み聞きをした限りでは、入院患者の間ではすこぶる評判が悪い。
皆理由に関しては、何かに怯えているのか口を閉ざすばかりで、その先はデータが無い。
そんな男が、本来全く医療に必要の無いテープを持って部屋に侵入してきたのだ。考えられる理由はただ一つ。
この状況を切り抜けるには…なんとか戦って相打ち以上に持ち込むしか無い。
僕は風音すら立てずに彼の真後ろに滑り込む。
ラグーコフツェンナイツィエという暗殺歩行術だ。無駄に長い。
本来であれば味方の作った隙を縫って懐に入り込む技術だが、こう暗いとそれも容易い。
後ろ手に扉を閉めた男は、もぬけの殻になったベッドをきょとんとした表情で見つめた。
……今だ。
つま先で小さくジャンプをすると、身体を一回転半捻り。
そのまま全体重を乗せた踵を鞭のように打ち付ける。
男の首筋に吸い込まれるようにその鎌はヒットし……
ゴカリ
骨のズレる嫌な音。
いい当たりだ。これなら一撃でやれた気が――。
「――痛ｩッ…！」
しかし、驚いた事に苦悶の声上げているのは自分だった。
突如生じた激痛に、反射的に顔が歪むのを感じる。
あぁ誤算だった。骨がズレたのは恐らく、自分の骨だ。
足首が違和感のある方向に曲がってしまって。
まさかここまで極端に弱っていたとは…！
「ぁぁぁああ痛ったぁ…」
ドウジマは首を抑えて屈む。
蹴りのダメージが全く無かった訳では無いみたいだが、非常にまずい。
「…いきなり先生の首を蹴りあげるなんて、とんでもないガキだなぁ。」
怒りが薄らと滲んだ、しかしほぼ無表情な顔で彼が睨んだ。
まずい。
僕は立ち上がろうとするものの、役立たずの足が痛みで動かない。
「…おや、おや、どうやら今のイタズラで足を痛めたみたいだねェ…どうれ、先生が診てあげようねェ」
ドウジマは奥歯まで見えそうな程口角を引き上げると、ダクトテープをビッと引き延ばした。
あれで拘束するつもりなのだろうか。
こいつが何をしようとしているのか、具体的な想像が浮かんでしまい背筋が凍る。
「…！」
僕は立つのを諦め、動く片足と手で這いつくばって扉を目指す。
扉を開けて声を上げれば、宿直が気付いてくれるかもしれないからだ。
だが相手は大柄の大人だった。
ゆっくりと近付かれているにも関わらず、歩幅ですぐに距離を詰められてしまった。
「待て待てぇ、駄目じゃないですかァ、安静にしていなきゃ…」
扉のノブを握った直後、僕は曲がった足首を掴まれて引き摺り戻される。
「ッ―――！」
痛みに顔が歪む。
引き摺られながも無事な方の足でガンガンと男を蹴るが、衰えた足では到底ダメージを与えられない。
「やっぱ骨、ズレちゃってるねェ。どうれ先生が治してあげようねェ!」
ドウジマが無理矢理ズレた足の骨を、正常な位置へと押し込んだ。
それはもう、嬉しそうに。
ゴキリ
「あ゛！！！！」
瞬間、脳がバグるかと思う程の衝撃が足から登ってくる。
それが痛みと気付くのは数瞬後だった。
生理的な反応で目元がじわじわと湿っていくのが分かる。
声を上げようにも、陸に打ち上げられた鯉の様に息を忘れてしまい、言葉が出てこない。
「痛かった？ごめんね？痛かった？」
ドウジマが爽やかな、にこやかな表情で問う。
到底加害を加えた人間がして良い表情ではない。
間違いない。こいつはペドフィリアでサディストの狂人だ。
一瞬、ロシア関連のスパイという線も疑っていたが、その可能性は狂笑の前に掻き消えた。
皆が彼に関して一様に口を閉ざすのは、報復を恐れての事なのだろう。
一体…この病院には、彼の毒牙に掛かった者は何人いるんだ？
どうにか、どうにかしてこいつから逃げなくては。
「"痛い"って顔してるねェ…いいねいいねいいよ、僕そういうお顔が大好きなんだ。痛みを与えた瞬間の"何で？"っていう呆然とした顔も大好きだしそのすぐ後の助けを請う様な顔も、少年少女の"無垢さ"を感じる事が出来るから大好きなんだ。病院はそんな顔が合法的に見れるからほんと良い所だよ。最高だねェ。」
笑顔を崩さず、ドウジマが饒舌に喋りだす。
狂人がゾーンに入った状態とでも言えるのだろうか。最悪だ。
エンドルフィンが過剰に分泌されている状態の人間にダメージは通りにくい。
ただでさえ力の弱っている僕にとっては弱り目に祟り目だ。
八方塞がり。万事休す。
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
そうなればもう、これしかあるまい。
「誰か助け――！」
ドツッ
鈍い音がして、一瞬視界が白飛びした。
身体に目を向ければ、ドウジマの拳が腹部にめり込んでいた。
「お、ぅ、ぇ」
嘔吐感が腹の底から登ってきて、思わず床に胃液を吐き出した。
更に最悪な事に、ショック状態なのか呼吸も難しい。
足の痛みから来る精神的なものと、腹部の圧迫から来る物理的なもの。
流石にこれを同時に貰うのは僕も初めてだった。
「びっくりしたなァもう。日本語、喋れたんだねぇ。ダメだよ、病院は静かにしなきゃ。」
彼は僕の顔を無理矢理抑えつけると、ダクトテープを口元に張り付けた。
細目で笑顔を作りつつ、指を口元に当て「シーッ」のポーズを作る。ふざけるな。
細い腕を振り回し、ドウジマの横顔を殴打する。
しかし、脳内麻薬が出ているであろう彼は意に介さない様に僕の腕を掴むと、口元と同じくグレーのテープでぐるぐる巻きに拘束する。慣れた手つきだ。くそったれ。
続けざま、脚も同じように拘束されてしまう。激しい痛みにより抗う事もままならない。
攻撃も叫びも封じられてしまった。無様にも程がある。
僕は芋虫の様に、情けなく床に転がった。
「アーイイ！！」
ドウジマが恍惚とした表情で奇声を上げる。
怖い。次の一手を考えられない状況では、恐怖が徐々に心を支配する。
考えろ、この状況を覆す方法を、考えろ！ 怖い。
「達磨人間みたいに無様で本当に可愛いねェ…。毎回そうだけど、人を転がすこの瞬間は本当に心が躍るよ…心配しなくてもこれからたっぷり遊んであげるからね…。
知ってたかい？リハビリテーション入院している子は痣が多いからサ、身体に多少生傷をつけてもバレやしないんだヨ。
特にキミはそうだなぁ…根性もあるしSLEの痣もあるから、普通の人よりた〜くさん楽しめそうだね！」
息荒げなドウジマは狂気的な笑顔を絶やさず、腕を振り上げる。
ドズッ
「ーー！！！」
腹部に再び重い拳が振り落とされた。
一度打ち付ちつけられた拳は、すぐさま振り上げられ、再び腹部へと叩きつけられる。何度も何度も。
鈍く重い痛みが激しくのし掛かり、気を失いそうになる。
対抗策を講じる間も与えられずに、今度は続けざま脇腹に激痛。
どうやら今度は足で蹴り上げられたらしい。
痛みの波に四方八方から蹂躙され、最早前後不覚だ。
苦悶と涙で汚れる僕の顔を見て、ドウジマが興奮した様に目を細める。
「んん…ンッ！！イイねぇその顔…！君は反抗的だからしっかりと教育しなきゃねェ…！さっき蹴られた首がまだ痛いんだヨ！！」
「…！…！！」
抗い様の無い恐怖に、心の侵食がじわじわと進んでいくのを感じる。怖い…恐ろしい…駄目だ…。
再び彼の腕が振り上がる。
「ごめんなさいは！！？」
ドスッ
「ンﾞッ…！！」
「ごめんなさいは！！？」
ドスッ
「ヴ…！！」
「ごめんなさいは！！？」
ドスッ
「ンﾞェﾞ…！」
狂気だ。
恐らくこいつは小児性愛や加虐性愛だけではなく、恐怖支配の倒錯まで持ち合わせている。
狂ってる。マトモじゃない。
目の前にいる大男が、人の形を取ったバケモノにしか見えない。悍ましい。
ふと、脳裏で敵国でスパイ中に見つかった仲間の末路がリフレインする。
くそ、くそ。ふざけるなよ。
どうして最早死に体の僕がこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
腕が振り下ろされる度、視界がどんどん狭まっていく。
意識が遠のいている証左だ。
この理不尽に理由なんてものは恐らく存在していない。
なんなんだよ、生まれた時からそうだけど、僕の人生むちゃくちゃじゃんか。
親に棄てられ獣が育て、軍に捕まり暗部で仕事、かと思えば瀕死の大怪我を負って今は男に殴られてる。
クソ漫画だってもう少し緩急つけたプロットで筆を執る。
ドスッ
「(い、嫌だ…)」
ドスッ
「(も…もう…)」
ドスッ
「(駄目だ…)」
拳が振り下ろされる度、僕の心の柱にヒビが刻まれていく。
ああ、もう流石に心身共に限界だ。耐える事に疲れ果ててしまった。
折られる、折られてしまう。
暴力に屈し、心が、二度と立ち直れぬ程に。
狂気に満ちたドウジマの勢いは衰えない。脆い僕の身体のに対して、骨を折らずに的確にダメージを与えていく。
内臓が裏返る様な痛みと吐き気の奔流に抗う事が出来ない。
極端に狭まった視界。
何度も見た、振りあがる拳。
あと一撃でも貰えば僕の意識はシャットダウンし、起きた頃には恐怖に完全に屈服してしまった僕の心と、ボロボロの身体だけが残るだろう。
無慈悲に振り下がる拳、受け止める精神力はゼロ。
ああくそ…せめて…せめて最後は、こいつの顔を見ずに意識を落とそう。
そう思い、ドウジマの顔から視線を外す。
廊下から漏れる非常灯の緑が、病室の天井に反射する。
目が滲んでいるからだろうか、それらは幻想的なオーロラのようにさえ見える。
「(あぁ…無様だなぁ…僕は…)」
朦朧とした意識の中、目を瞑って最後の精神の灯火が潰えるのを待った。
しかし同時に、無意識的に思惟する。僕の記憶が正しければ、部屋の扉はドウジマが閉めた筈だ。
であれば廊下の非常灯の灯りが漏れているのは何故だ？説明が付かない。
もしかすると、朦朧とした意識下の中見た泡沫の幻想だろうか。それとも病院に蔓延る非科学的存在の一端だろうか。何故だろう…理由は分からない。
いずれにせよ───あれ？そういえば。
先程から、振り下ろされた筈の拳の衝撃を感じない。
こんな意識下ではどのくらいの時間思考をしていたのかは定かではないが、悠に5秒10秒は経ていた様に思える。
「(一体…何が…？)」
僕は恐る恐る瞼を開く。
すると、そこには信じ難い光景が広がっていた。
大柄な体躯から繰り出される垂直落下の拳を、小柄な男が片腕で受けている。
男の背後、真下から見上げる形になっている為に顔は伺い知れないが、その男が恐ろしい闘気を立ち登らせている事は、火を見るより明らかだった。
すかさず、小柄の男が反対側の腕をしならせる。
めしり
脇腹に深々と入った拳は、1拍遅れてドウジマの身体を吹き飛ばした。
「がぁっ…！」
巨大な質量が吹き飛ぶ。
壁に叩きつけられたドウジマが、信じられないといった面持ちで床に目を落とす。
がっくりとうなだれた肩からは先程の威勢は感じられない。
「やれやれ、嫌な勘というのはどうも、よく当たってしまいますねえ。」
小柄な男がスーツの襟を正し、こちらを向き直る。
その男は僕も良く知るあの男――下町が誇る権力の粋――警察官、杉本だった。
「大変遅くなりまして申し訳御座いません。もう大丈夫ですよ。」
彼は手際良く僕からテープを剥がしていく。
「スギ…モト…」
「無理して喋る必要はありませんよ。さぁ、目を瞑ってゆっくりと息を吸って…今はただお眠り下さい。」
「…うん……」
何故だか、もう絶対に大丈夫なんだ、助かったという安心感が僕の胸に込み上げた。
一度は彼に救われた身だが、また貸しが増えてしまったかな。
何故彼が突然この場に現れたのかはさっぱり分からない。
だが、神出鬼没なこの男だ。何か考えあっての事なんだろう。
ああ…そんな事を考えるよりももう…随分と眠くなってしまった。
…久々だな、自然な眠気を感じたのは。
でも結構…悪くないもん…だね。
僕はそれまで必死に握り続けていた意識の手綱を、ゆっくりと手放した。
…
「眠りましたかね…おやすみなさい。アイゼクト君。」
「…さて、次は貴方に用があります。」
軽い彼女を部屋隅のベッドに運び置いた後、銀縁の眼鏡を中指で押し上げ、再び現行犯…堂嶋へと向き直る。
壁に項垂れていた彼といえば、丁度膝に手をつき体制を立て直す所だった。
「はぁ…やれやれ。私の一撃を喰らってもなお立ち上がるその身体、頑強なのは人として羨ましいばかりですが、正直な所厄介ですねぇ。」
アイゼクト君には申し訳ない事をした。
私がこの病院に入院させなければ、この様な暴力に晒される事も無かったろうに。
誰に言うわけでもありませんが…本当に申し訳無い。
あぁだがしかしその一方で…おかげでこのクソ野郎を見つける事も出来た。
これに関しては不幸中の幸いだ。
黒井先生との「面談」が伸びに伸びたおかげで、こんな時間まで拘束されてしまったが、収穫は大きかったという訳だ。
最近、入院中の小児患者が不審死を遂げる事例が頻発していたので調査をしていたが、その一端は恐らくコイツが握っているのだろう。
自身の欲求の為に、か弱い子供を狙ったその蛮行、加えて医者という立場でそれを行った事。
どちらもとんでもない下衆た行為だ。恥を知れ。
「グ…ゥ…ざけ…るな」
「はい？」
「…ふざけるなよぉぉおお！！」
突然、激昂した堂嶋が掴みかかってきた。
まるで自慰行為を見られた中学生の様な感情的行為だ。
「黙ってお縄につけばいいものを…。」
大振りな両腕を屈んで躱し、懐に入り込む。すかさず懇親の肘打ちを鳩尾に決める。
「お…ゴ…！」
「痛いですか？そうでしょうね。そのようにやってますので。」
チャキっと眼鏡を正した後、腰を丸めた堂嶋の襟首を掴み、そのまま軸足を弾く。
「ちゃんと受身を取って下さいね。」
背中に彼の身体を乗せ、遠心力で壁へと投げ飛ばす。
勢いの乗った肉の塊は、白衣をたなびかせた後、大きな音を出して壁へと激突した。
「ぐぁは！」
壁に叩きつけられ、床に墜落した堂嶋が、池の鯉みたいに苦しそうに口をパクつかせる。
受け身に失敗し、背中からモロに叩きつけられた為だ。
「フゥーー…。」
私は無感情に、しかしいかにもといった感じで溜息を吐いた。
「だから言ったじゃありませんか。受け身くらいテメーで取れと。」
そんな事を言いながら、カツ、カツ、とゆっくりとした歩みで彼に近付いていく。
「私は小児性愛者でも無いしサディストでもありません…なので1回。1回だけです。」
歩みを進めながらジャケットを脱ぎ捨てる。
上質な生地で編まれたそれには、シワひとつ無い。
ワイシャツは汚れてもどうとでもなりますが、ジャケットは後が面倒ですからね。
「ですがこの1回に…皆の怨みを込めましょう。私が代弁…というのもおこがましいですが、せめてもの弔いになればと思いましてね。」
事態を察したのか、未だ酸素不足に喘ぐ堂嶋がジタバタとその場を離れようとする。
それをすかさず足で踏み留める。
「…貴方の職業は何ですか？本来ならばその腕は、人を救う為だけに振るわれるべきものの筈です！なのにどうですか現実は！己が欲求を満たす為に、若い命を弄ぶなど…到底許せる事ではありません！」
闘気をゆらりと孕んだ拳が、怒りに戦慄いているのが分かる。
まだまだ自分も青いという事でしょうか。
情動的に動くのは警官らしくありませんが、今宵この場で誰が見ていると言うのでしょう。
「堂嶋 央造32歳。午前2時36分現行犯逮捕。残りの人生をかけて、亡くなった方やその家族の為に償いなさい！」
白いワイシャツの中、はち切れんばかりの筋肉を引き伸ばし、腕を振りかぶった。
「恥を知りなさい━━━━━━！！」
………
……
…
【15歳頃】
アイゼクト・フローはソビエトの崩壊と共にシベリアの寒村で産声を上げた。
当時の世界情勢として、資本主義と共産主義の諍いによる冷戦は下町以外の諸外国経済に大規模な打撃を与えていた。
当然、それは体制を崩しかけていたソ連の胸元に、鋭利な刃物をじわりじわりと沈め刺したと言っても過言では無かった。
あまり裕福では無い家庭に生まれたアイゼクトは、まだ瞼も開かない乳飲み子の時期、家庭の財政状況の苦慮により、
大量の毛布、そして極少量の腐肉と共に北部の山間森林へと捨てられた。
肉と共に赤子を森へ捨てる、その行為が意味する所の酷薄さは、聡慧なる皆におかれては時を移さずとも理解しただろう。
悪逆無道なその父母らは、彼女の"処理"を"森の番人"へと投げ捨てたのである。
当時、北部では厳しい冬に備える為の燃料確保の為、政府による破壊的な森林伐採が相次いでいた。
森林区域の減少に伴い、追いやらられた動物達は次第に生息範囲を狭め、収束していく。
そうした中で生まれるのは動物達による小競り合い・縄張り争いである。
厳しい寒さの中、冬眠を行わないシベリアオオカミの群れはすぐさま頭角を現した。
シベリアオオカミは約20匹の群れで集団生活を営む。
それぞれ役割は分かれており、群れを率いるリーダーの狼、狩りを行い集団を支える狩狼グループ、
そしてまだ幼い子狼を立派な成狼に育てる母狼グループがある。
ある日、狩狼グループが食料を拵えに麓へ降りると、匂いを放つ腐肉と共に赤子が捨てられているのを発見した。
アイゼクトである。
明らかなヒトの残り香はあるものの、美味そうに強烈な匂いを放つ腐肉、そして柔らかな稚児。
まるで天からの巡り物とも言えるような好条件で食料を見つけた彼ら。
しかし、それに牙を立てることは母狼達が許さなかった。
哺乳類はしばしば他動物の赤子に愛情を示す事がある。
この例もそれと同様だった。
兎にも角にも、アイゼクトは末娘として狼の群れへと迎え入れられたのだ。
常人にでさえ厳しいシベリアの地は、剥き身の人が数日と生きるのも難しい。
しかし、彼女は懸命に生きた。いや、狼の家族の手により、懸命に生かされたという方が適当だろうか。
群れは少しずつ温暖な地域へと移住した。
アイゼクトが齢五つになる頃には、彼女はシベリアより幾分も暖かな森林の中で、狩狼達と狩猟をする様になった。
狩狼達が獲物を追い立て、隙を縫ったアイゼクトが木々の上から降り立ち、息の根を止める。
彼女らのコンビネーションは、本来お互いが為し得ない動きをカバーするものであり、
技術は互いの信頼感と併存し、高まる事を止めなかった。
しかし、平穏とは微妙なバランスの上に成り立つものである。
ある日それが音を立てて崩れたとしても、我々に抗う術は無い。
狼は鉛玉により駆逐され、アイゼクトは拘束された。
いつもの様に狩りを行っていた彼女らは、迂闊にも軍事演習中の兵士を襲い、返り討ちにあったのだ。
ロシア軍部の恐ろしさは、ソビエトの過去を鑑みるに想像に難くない。
表向きには解体されたKGBであるが、その意向を汲む軍がこの後少女に施す教育など、
オルゴンの人体実験に比べれば歴史の闇に葬る事など容易かった。
それから約8年後、嘗ては野生児・狂狼の汚名を着せられていた少女は、身体能力の高さと地頭の良さを見出され、
青年将校隊のエリートと混じり、国家保安局に所属していた。
与えられたコードネームはルプス。皮肉にも狼の学名から取られたその名前を、彼女はあまり快く思っていなかった。
仕事内容は体躯や容姿、知性を生かした諜報、潜入、暗殺…。
産まれてから群れ社会の一員として弱肉強食の狩猟生活に身を置いていたルプスにとって、
それらは生命活動の延長線上にある行為であり、なんら努力の必要の無い作業であった。
青年将校隊の中でも、上を脅かす程に優秀。
しかし、それ故の嫉視を見逃していたのは迂闊だった。
その日の作戦は海を越え、下町への強化血清密輸任務だった。
密輸とはいえ、商業タンカーの船員になりすましてジュラルミンケースを運び込むだけの簡単な任務。
当然単独での遂行を申し出たが、同期の仲間内数人が参考にと同行を申し出た為、
やむ無く4人でのオペレーション遂行となった。
そして、ボストチヌイを出港して3日の深夜。
事件は起こる。
航海の仮眠中、首筋に痛みを感じて瞼を開いたルプスは朧げに歪む船内を見渡す。
隣の燃料室は相変わらず五月蝿い。
開いたカバン、赤、扁桃腺の炎症、鉄臭…鉄？
…状況整理。
嗅ぎ慣れたこの臭い。
急速に脳内の生産工場からアドレナリンが過剰投与される。
死体、ターゲットオブジェクト破損、血液、状況理解、絶句。
付近には開いたジュラルミンケース。
中のアンプルは無くなっており、自身の付近には使用済みの注射器と空のアンプルが1瓶。
ベッドには寝かされたままの死体が2体。いずれも仲間だ。
頸動脈を一閃されており即死している。
つまりこれは、プロの犯行。
導き出される結論イコール…仲間の裏切り。
思わず唇を噛み締める。
窓から見えるベランダでは、警告色の縄が風にたなびいていた。
此処には…脱出用のゴムボートが縛られていた筈だ。
油断していた。逃げられた。
大方、裏切った奴の筋書きとしてはこうだろう
「力を求めたルプスが味方を裏切り殺害。
強化血清を打った彼女に追い詰められたが辛くも自分だけは逃げる事に成功。その後、ルプスはそのまま下町へ亡命した。」
自身に時折怨嗟の眼差しを向ける者がいるのには気付いていた。
しかし、ここまでするとは。
狼の方がよっぽど理性的だ。
下唇を更に深く噛み込み、悔しさに震える。
自身の実力に驕りがあったのだ。
どうしよう、どうすればいい。身体は震えて動かない。
じきに見回りが来る。そうなれば終わりだ。
昔からそうだが、想定外の事態になると自分は急に弱くなる。
狼の家族が軍からの反撃に合った時、自分はどうした？反撃したか？
いいや、ただ焦るだけで震えてその場でしゃがみこんでいただろう。
軍の教育プログラムを受けた時、自分はどうした？教官に一度でも反撃したか？
いいや、ただ焦り、教官を怒らせまいと必死に優等生を演じたろう。
今はどうだ？
気付けば自分は耳を抑え込み、ただ震えていた。
私は、弱い。
ぐらり、唐突に視界が歪む。
次第に平衡感覚が曖昧になり、床と自身の境目が曖昧になる。
これは…精神的ショックによるものか？違う。明らかに違う。
…そうか、血清か。やはり投入はされていたらしい。
次第に息は上がり、首からは燃えるような熱が伝番する。
いたい、あつい、苦しい。
皮膚を見遣れば、狼に噛まれた様な赤い斑点が幾つも浮かび上がっている。
この症例は医療本で見た事がある。全身性エリテマトーデスだ。
英名は確か…システミック ルプス エリテマトーデスとか言ったか。
皮肉にしたってあまりにも、この上なく酷い仕打ちだ。
というより…血清じゃ無かったんだな。
原因不明難病のエリテマトーデスを人為的に引き起こすバイオ兵器なんて、下町に運んで何をするつもりだったんだろう。
明滅する意識のシグナルを必死に結び合わせて床を這う。
まだ誰かに見つけて貰えれば生存のチャンスはある。
流石にこんな重病人が人を殺したとは思わないだろう…
…懸念としては、感染症を恐れた船員から海に投げ捨てられないか…という所だが。
必死に冷たい床を這い、弱々しく腕を伸ばし、ノブを押し回す。
これで…なんとか…
カチリ
おおよそ、木製のドアには似つかわしくない嫌な金属音が響いた。
私には2つ、読み違いがあった。
1つは、結局自分は1人じゃ何も出来なかったという事。
もう1つは逃げ果せた裏切り者が自分にトドメを刺さないと思い込んでいた事だ。
…
下町湾沖の商船タンカー爆発事故の一報は、すぐに警視庁の敏腕刑事、杉本左京の耳にも入った。
聞けば深夜未明、沖数百メーターという所で商船が爆発事故を起こし、海に沈んだそうだ。
「(爆発事故…本当にそうでしょうか。)」
妙な胸騒ぎを覚えた左京は、埠頭に車を走らせた。
水平線に未だ立ち昇る黒煙を睨み、訝しむ。
商船が進水したのは5年前。決して古い船という訳ではない。
寧ろ、船の中ではかなり新しい方だ。
積荷は商業施設用に卸す為の食料品が主…。
可燃性のあるものは少々あれど、爆発する程のものは無かった筈だ。
やはり疑問点が多い。本当にこれは事故なんでしょうか？
働き盛りの男の眉間に、鋭く皺が寄った。
ふと、鋭い眼光の先に彼は何かを捉える。
黒く波打つ海面に、銀のブイがゆらりと揺蕩っている。
あれは？
この埠頭は静かに物事を整理したい時にしばしば訪れる。
今までの記憶を手繰り寄せる限り、そんなものを見た覚えは無い。
つまりあれは――。
目と脳が理解した瞬間、彼は荒波に飛び込んだ。
06 32 湖 58 63 19 煙 74 88 氷 21 ...
………
……
…
光、白タイル、仄かなアルコール臭…。
意識の微睡を反芻しながら、ゆっくりと瞼を上下する。
ここは冷たく陰気なB1医務室だ。医者は常駐していない。
基本的にセルフサービスだからだ。
なんでこんな所に居るかって？
戦闘訓練をするといつもこうなんだ。
毎度毎度スリルある戦いを求めてしまうもので、生傷が絶えなくてね。
「…おいルプス、仲間は大事にしなきゃ駄目だぜ。」
宥めるような声色で、赤毛の男が語りかける。
ルプスというのは僕のコードネームだ。
狼の学名を冠したその名は実はあまり気に入ってはいない。
男は僕の頬についた切り傷を手際良く消毒しながら、どうやら空いたもう片方の手で絆創膏を探してくれているようだ。
その指先がなんだか下手くそなピアニストみたいに、ちょこまかと着地点を探すように動いていて思わず笑ってしまいそうになる。
そんな心情とは裏腹に、
「…突然なんだ？…知っているさ、そんな事。」
と、僕は無表情に答えた。
ちくちくと染み込む頬の痛みが忌々しい。
僕は不器用だった。
手先の動作の話ではなく、心の内を誰かに話したりだとか、
協調性を見せるだとか、そういった事が致命的に下手くそだったのだ。
でも仕方ないでしょ？五歳まで狼と育ったんだから。
人よりもその他動物の方がよっぽど欲望に忠実で分かり易いもん。
…決して自分に甘い訳では無いぞ。
とはいえ、組織では当然交渉技術も学んでいるのだから、性格の取り繕いくらいは出来て然るべきらしい。
僕のウィークポイントはいわゆる会話。
それが致命的にヘタクソ………なんだと思う。
僕としては知的でクールに振る舞ってるだけなんだけど、相手からしたら突き放したような言動に感じるらしい。
その為か、今まで怒らせた人間は数知れず…。
そんな訳で、組織上の同僚という観点で仲間はいても、
心から信用する本来の意味での「仲間」という者は存在しなかった。
たった1人…目の前の彼を除いては。
キツい教育プログラムの中で、少しだけ年上のこいつだけが僕に優しい。
まぁ当然、僕一人を特別扱いしている訳では無い。
年長者のリーダーシップだとか、生来の面倒見の良さとか、
そういうのもあるんだとは思う。
…とまぁ長々しい語りは置いておいて、そろそろ会話に戻ろう。
なんだっけ？仲間には優しくしろだっけ？分かってるさ。
「…まーお前は本当は優しい奴だ。俺はそう思ってる。今回の組手も五分五分の戦いになるように力を抜いていただろ？」
ぎくりとした。図星だ。
「いや、別にお前を責めちゃいねぇ。明らかな負けだとペナルティーがあるからな……まぁ、アレならアイツも免れただろうよ、うん。」
……えぇー…そんなにわざとらしかったかなぁ？
…いや、そんな筈は…んー、まぁ……よく見てるじゃん？？
ぉ…もしかして何？？そんなにガン見するなんて、僕の事好きなの？？？
…危ない危ない。思考が脱線していた。
あの場に居て見抜けたのは、恐らくこいつだけだろう。
自惚れではないが、僕は強い。
並の大人であれば、僕に一撃を入れる事すら叶わないだろう。
コミュニケーション能力を犠牲に、身体能力が飛び抜けてると考えて貰いたい！（って言うと、言い訳するなと怒られる。）
「…アイツが弱過ぎるから、気が抜けちゃっただけだ。」
我ながら下手くそな取り繕いだ。うーん、40点って所か？
彼は思わず苦笑する。
「はは、そうかそうか……うっし、傷はこれで良しっと…」
絆創膏を僕の頬に貼り付けた彼が、後片付けをしながら藪から棒に問う。
「なぁ、ルプス。お前、将来の夢とかあるか？」
へ？
突然の話題転換に思わず顔にまで「はぁ？」という表情を出してしまっているのが自分でも分かる。僕が言うのもなんだが、もうちょっと文脈を考えて話せ。
それにしてもなんだその問は？何かのテストか？試されてるのか？
急にそんなクサい事を聞き始めるなんて。
鳥肌が立ちそうになるからやめてくれ。
しかし、どう答えれば良いかなら心得ている。
「………あー、祖国の為に尽力し、国と経済の発展に努める人間になりたい…だ！」
僕はドヤ顔で答える。誰もが知ってる会話術の模範解答だ。当然覚えているさ。
聡明な僕に対して、背後からロシア連邦国歌が流れ、讃えているのを幻聴した。
「あ？バーカ、そりゃマニュアル通りの解答例だろ。俺が聞きたいのはそうじゃない、お前の本当の夢だ。」
カチーン。ば、バカだと？
僕を讃えるBGMは、たちまちベルリンの壁崩壊のイメージ映像に切り替わる。
なんだよ、分かり辛い問いを投げたのはお前やろがい…という愚痴は心の中に仕舞い込む。
「なんでそんな事を聞く？」
「あぁ…わりーな。突然こんな事聞いてもルプスじゃピンと来ねーよな。」
カチーンセカンド。
ペースが早いな。3カウント目は鉄拳が飛ぶぞ。覚悟しとけ。
「…俺たちは青年将校だ何だと持て囃されちゃいるが、結局はインスタント諜報部員だ。有事の際には容赦無く切り捨てられる。」
ステンレスの医療器具が身を擦り合い、カチャリカチャリと冷たい音を響かせる。
ちょっと雰囲気がシリアス寄りに傾いた。と、感じた。
僕そういうの苦手なんだけど。
「身も蓋もない話をすると、夢なんかを持った所で、それを叶える事が出来る年齢まで生きれる奴はほぼ居ねぇ。俺はそう思ってる。」
「実際ここ数年で俺達の半数はKIA(戦死)、若しくはMIA(行方不明)だ。」
「…ああ。」
我々青年将校隊はその特異な性質上、危険な任務に駆り出される事が多い。
もし若い青年少女のスパイ行為がバレて、あまつさえ捕まろうものなら…末路はなんとなく分かるだろう。
実際、諜報がバレてMIA扱いだった奴の救助を行った事はあるが…思い出しただけでも吐き気が込み上げてくる。
ベースに持ち帰られたそいつは結局、"終了"された。
残念ながらその処分は妥当だし、僕が当人でもそう望むだろう。
当時はやりきれない思いだったが、今では骨折した競走馬の安楽処分と同じような意味合いだったと、理解しているつもりだ。
「だがな、だがなルプス。だからといって夢を持たねえで放棄する奴は1番弱ぇ。」
「人っつーのは弱っちぃからな。何か希望みたいなモノを心の中心にぶっ立てて、それを一本の松葉杖にして歩かねーと途中で折れちまうんだ。」
相変わらずよくわからない例えをするヤツだ。
「…松葉杖は二本で一セットだろう。」
「ああ、その通りだ。じゃあちゃんと歩く為にはもう一本必要だよな？…そのもう一本は…何だと思う？」
………あぁー…なんとなくコイツが僕に何を言わせたいのかが分かった。
くそ、答える必要あるのかコレ。恥ずかしいよ。
「ん…なかま？」
僕がそう答えると、そいつは口角をニッと上げて豪快に笑う
大柄なガタイから伸びる大きな手が、僕の頭をガシガシと撫でた。
「そ〜だルプスゥ！お前もちっとは考えれるじゃねぇか！」
「わわわ、やめろ！やめろ！！」
この男のこういう所がめんどくさいんだ。
妙に人情好きというか、誰に対しても熱量があるというか。
くそ、恥ずかしい。でも褒められるのはちょっぴりだけ嬉しい。
「言いたいことはなんとなく分かったか？」
「…はぁ、分かったよ。仲間は大事に、だな。」
「あぁ、最初の話に戻るがそういうこった。お前がお前である為にな。」
「…じゃあさ、一つだけ聞いておきたい事があるんだが。」
「お、奇遇だな。コイツをお前に教えた上で、俺もお前に聞きたい事があったんだ。」
お互いがお互いを見つめる。
彼と僕の視線が、一直線に交錯した。
………
……
…
………
……
…
光、白タイル、仄かなアルコール臭…。
意識の微睡を反芻しながら、ゆっくりと瞼を上下する。
ここは冷たく陰気なB1医務室だ。医者は常駐していない。
基本的にセルフサービスだからだ。
なんでこんな所に居るかって？
戦闘訓練をするといつもこうなんだ。
毎度毎度スリルある戦いを求めてしまうもので、生傷が絶えなくてね。
「…おいルプス、仲間は大事にしなきゃ駄目だぜ。」
宥めるような声色で、赤毛の男が語りかける。
ルプスというのは僕のコードネームだ。
狼の学名を冠したその名は実はあまり気に入ってはいない。
男は僕の頬についた切り傷を手際良く消毒しながら、どうやら空いたもう片方の手で絆創膏を探してくれているようだ。
その指先がなんだか下手くそなピアニストみたいに、ちょこまかと着地点を探すように動いていて思わず笑ってしまいそうになる。
そんな心情とは裏腹に、
「…突然なんだ？…知っているさ、そんな事。」
と、僕は無表情に答えた。
ちくちくと染み込む頬の痛みが忌々しい。
僕は不器用だった。
手先の動作の話ではなく、心の内を誰かに話したりだとか、
協調性を見せるだとか、そういった事が致命的に下手くそだったのだ。
でも仕方ないでしょ？五歳まで狼と育ったんだから。
人よりもその他動物の方がよっぽど欲望に忠実で分かり易いもん。
…決して自分に甘い訳では無いぞ。
とはいえ、組織では当然交渉技術も学んでいるのだから、性格の取り繕いくらいは出来て然るべきらしい。
僕のウィークポイントはいわゆる会話。
それが致命的にヘタクソ………なんだと思う。
僕としては知的でクールに振る舞ってるだけなんだけど、相手からしたら突き放したような言動に感じるらしい。
その為か、今まで怒らせた人間は数知れず…。
そんな訳で、組織上の同僚という観点で仲間はいても、
心から信用する本来の意味での「仲間」という者は存在しなかった。
たった1人…目の前の彼を除いては。
キツい教育プログラムの中で、少しだけ年上のこいつだけが僕に優しい。
まぁ当然、僕一人を特別扱いしている訳では無い。
年長者のリーダーシップだとか、生来の面倒見の良さとか、
そういうのもあるんだとは思う。
…とまぁ長々しい語りは置いておいて、そろそろ会話に戻ろう。
なんだっけ？仲間には優しくしろだっけ？分かってるさ。
「…まーお前は本当は優しい奴だ。俺はそう思ってる。今回の組手も五分五分の戦いになるように力を抜いていただろ？」
ぎくりとした。図星だ。
「いや、別にお前を責めちゃいねぇ。明らかな負けだとペナルティーがあるからな……まぁ、アレならアイツも免れただろうよ、うん。」
……えぇー…そんなにわざとらしかったかなぁ？
…いや、そんな筈は…んー、まぁ……よく見てるじゃん？？
ぉ…もしかして何？？そんなにガン見するなんて、僕の事好きなの？？？
…危ない危ない。思考が脱線していた。
あの場に居て見抜けたのは、恐らくこいつだけだろう。
自惚れではないが、僕は強い。
並の大人であれば、僕に一撃を入れる事すら叶わないだろう。
コミュニケーション能力を犠牲に、身体能力が飛び抜けてると考えて貰いたい！（って言うと、言い訳するなと怒られる。）
「…アイツが弱過ぎるから、気が抜けちゃっただけだ。」
我ながら下手くそな取り繕いだ。うーん、40点って所か？
彼は思わず苦笑する。
「はは、そうかそうか……うっし、傷はこれで良しっと…」
絆創膏を僕の頬に貼り付けた彼が、後片付けをしながら藪から棒に問う。
「なぁ、ルプス。お前、将来の夢とかあるか？」
へ？
突然の話題転換に思わず顔にまで「はぁ？」という表情を出してしまっているのが自分でも分かる。僕が言うのもなんだが、もうちょっと文脈を考えて話せ。
それにしてもなんだその問は？何かのテストか？試されてるのか？
急にそんなクサい事を聞き始めるなんて。
鳥肌が立ちそうになるからやめてくれ。
しかし、どう答えれば良いかなら心得ている。
「………あー、祖国の為に尽力し、国と経済の発展に努める人間になりたい…だ！」
僕はドヤ顔で答える。誰もが知ってる会話術の模範解答だ。当然覚えているさ。
聡明な僕に対して、背後からロシア連邦国歌が流れ、讃えているのを幻聴した。
「あ？バーカ、そりゃマニュアル通りの解答例だろ。俺が聞きたいのはそうじゃない、お前の本当の夢だ。」
カチーン。ば、バカだと？
僕を讃えるBGMは、たちまちベルリンの壁崩壊のイメージ映像に切り替わる。
なんだよ、分かり辛い問いを投げたのはお前やろがい…という愚痴は心の中に仕舞い込む。
「なんでそんな事を聞く？」
「あぁ…わりーな。突然こんな事聞いてもルプスじゃピンと来ねーよな。」
カチーンセカンド。
ペースが早いな。3カウント目は鉄拳が飛ぶぞ。覚悟しとけ。
「…俺たちは青年将校だ何だと持て囃されちゃいるが、結局はインスタント諜報部員だ。有事の際には容赦無く切り捨てられる。」
ステンレスの医療器具が身を擦り合い、カチャリカチャリと冷たい音を響かせる。
ちょっと雰囲気がシリアス寄りに傾いた。と、感じた。
僕そういうの苦手なんだけど。
「身も蓋もない話をすると、夢なんかを持った所で、それを叶える事が出来る年齢まで生きれる奴はほぼ居ねぇ。俺はそう思ってる。」
「実際ここ数年で俺達の半数はKIA(戦死)、若しくはMIA(行方不明)だ。」
「…ああ。」
我々青年将校隊はその特異な性質上、危険な任務に駆り出される事が多い。
もし若い青年少女のスパイ行為がバレて、あまつさえ捕まろうものなら…末路はなんとなく分かるだろう。
実際、諜報がバレてMIA扱いだった奴の救助を行った事はあるが…思い出しただけでも吐き気が込み上げてくる。
ベースに持ち帰られたそいつは結局、"終了"された。
残念ながらその処分は妥当だし、僕が当人でもそう望むだろう。
当時はやりきれない思いだったが、今では骨折した競走馬の安楽処分と同じような意味合いだったと、理解しているつもりだ。
「だがな、だがなルプス。だからといって夢を持たねえで放棄する奴は1番弱ぇ。」
「人っつーのは弱っちぃからな。何か希望みたいなモノを心の中心にぶっ立てて、それを一本の松葉杖にして歩かねーと途中で折れちまうんだ。」
相変わらずよくわからない例えをするヤツだ。
「…松葉杖は二本で一セットだろう。」
「ああ、その通りだ。じゃあちゃんと歩く為にはもう一本必要だよな？…そのもう一本は…何だと思う？」
………あぁー…なんとなくコイツが僕に何を言わせたいのかが分かった。
くそ、答える必要あるのかコレ。恥ずかしいよ。
「ん…なかま？」
僕がそう答えると、そいつは口角をニッと上げて豪快に笑う
大柄なガタイから伸びる大きな手が、僕の頭をガシガシと撫でた。
「そ〜だルプスゥ！お前もちっとは考えれるじゃねぇか！」
「わわわ、やめろ！やめろ！！」
この男のこういう所がめんどくさいんだ。
妙に人情好きというか、誰に対しても熱量があるというか。
くそ、恥ずかしい。でも褒められるのはちょっぴりだけ嬉しい。
「言いたいことはなんとなく分かったか？」
「…はぁ、分かったよ。仲間は大事に、だな。」
「あぁ、最初の話に戻るがそういうこった。お前がお前である為にな。」
「…じゃあさ、一つだけ聞いておきたい事があるんだが。」
「お、奇遇だな。コイツをお前に教えた上で、俺もお前に聞きたい事があったんだ。」
お互いがお互いを見つめる。
彼と僕の視線が、一直線に交錯した。
………
……
…
………
……
…
「……！」
ガシャン！
清潔感溢れるリハビリセンターに、軽めの金属音が響いた。
アルミニウム製の松葉杖と自分。それらが無様に重ね倒れた音だ。
ああ、くそ。ボーッとしてた。嫌な事思い出しちゃったな。
「ちょっ…大丈夫ですか！？」
冷や汗をかいた看護婦さんがパタパタと駆け寄って来る。
「立てます？さぁ私の腕に掴まって！」
「あー…スパシーバ…」
看護婦が僕にのしかかる松葉杖を手際良く除けていく。
「焦る気持ちは分かりますけどね…リハビリは安全・地道に！が鉄則ですよ！……って日本語分からないんでしたっけ…あはは…」
姿勢を正してくれた彼女は、おっちょこちょいそうな顔を朗らかに緩ませ、頭を掻いた。
「(…本当は分かるんだけどね。)」
ここは下町中心街の波間大学付属総合病院、現在の僕の住処だ。
肌寒く静かなロシアとは、まるで真逆の雰囲気だ。
あの海での事故の後、地元警察に運良く引き上げられた僕は、この病院に緊急搬送されたらしい。
全身の骨がバラバラに砕けていた僕は、件の商船との関連を疑われた。
…が、今日に至るまで特に追及が無いという事は、僕を救ったあの男が、都合良く疑念を払ってくれたらしい。
んまぁ…僕が記憶喪失者のフリをしているという所為も、多少なりともあるとは思うが。
『いやぁ、ホントに痛ましい事故でしたよねぇ』
『流出した重油の影響が…』
『海上皇軍の発表によりますと…』
天井から下がるテレビでは、数ヶ月前に起こったロシア商船沈没事故の特集が、ぐるぐるとループ映像のように流されていた。
世間的には乗組員は全員死亡。あるいは行方不明という事になっているらしい。
偽の乗組員として乗船していた僕はこの通り生きているし、僕を裏切った奴もサブボートで脱出している筈なので、その情報は僅かに誤りだ。
最低でも1人、或いは2人の生き証人が存在している。
だが、その真実を知るものは限りなく少ない。
「ほらあの子よ…酷いSLE(全身性エリテマトーデス)なのに海で遊んだか事故ったかして、運び込まれたって子…」
「あぁ、あの子がね…そういえば記憶も無くしちゃってるんだっけ？」
「そーそ。日本に居るのにロシア語しか喋れないなんて、担当の黒井先生も苦労してそうよね〜」
「ね〜！ほ〜んと、私達だってタダでさえ忙しいのに…担当に回されなくて良かったわぁ〜」
リハビリ室の角にある事務所で、いかにも暇そうな看護師達がやいのやいのと好き放題くっちゃべっている。
女によくある、薄汚いコミュニケーションだ。
フン、浅はかな奴らだ。
僕がロシア語しか喋らないのは、その方が色々と追及されず都合が良いからだ。
「…………」
僕は何も分からないフリをして、松葉杖を掴む掌に再び力を入れた。
とにかく今は、数か月間寝たきりだったこの体を復調させる事と、生物兵器による病を完治させる事がなにより先決だ。
ぐぐっと腕に力を入れると、骨が軋む。
かつて節っぽく力強さを感じた腕や脚は、今や見る影もない。
寒村の枯れ木の様に、吹けば折れてしまいそうだ。
滑らかに細く白んだそれらは、ひどく頼りなく見えた。
今まで性別を意識した事など諜報術の教育中くらいしかなかったが、
こうなってしまうと自分も所詮は惰弱な女だという事を嫌でも認識させられる。
幸い、SLEによる狼の噛跡の様な炎症は、首筋に少々残る程度に治癒した。
自分で言うのも何だが、見た目状はほぼほぼ普通の少女と言ってしまっても差し支えは無いだろう。
ただ一方で、内臓へのダメージが意外にも深刻だったらしい。
肺や心臓が、身体の動きに全くもってついて来てくれなくなってしまった。
ロシアに居た頃は、オデッサの階段という大階段を全力疾走しても息一つ上がらなかったが、今では階段で1フロア移動する度に休憩が必要だ。
情け無くて目元が潤む。
「大丈夫！焦らないでね、お姉さんがついてるよ！」
起こしてくれた看護師が、巻いた栗毛を揺らしながら心配そうに顔を覗き込んでくる。
うぅしまった、顔に出てたか。
ここに来てからというものの、殆ど触れたことの無い優しさを何度も受けてしまっている。
(うぅん…優しさって恥ずかしいんだな。)
僕は思わず伏し目がちに顔を逸らしてしまった。
「それに黒井先生も言ってたじゃないですか！明けない夜は無いって！」
彼女が口にした女医、黒井 凛々須。
僕の主治医だ。
形成・整形外科のプロフェッショナルであり、年齢不詳ながらもその妖艶さから男性人気が異常に高い。
噂では彼女に診てもらうためにわざと怪我をする者も居る程だとか。
…しかし、自分が知っているのはそれくらいだ。
この病院に勤務している人物のデータベースは既にインプット済みだが、彼女のデータはとりわけ少ない。衰えたとはいえ、僕の諜報能力をもってしてもここまで情報が揃わないのは彼女くらいだった。
…それはそうとしてこの看護師、私が日本語分からないと認識してるにも関わらず、滅茶苦茶話し掛けてくるな？
「それまでは私と一緒に頑張りましょうね！」
「…ダー…」
私はまんざらでもない表情を悟られない様に、俯いたまま、少しだけ頷いた。
「おや、存分に励んでいらっしゃる様ですねぇ」
不意に、背後から特徴的な抑揚をつけた声で語りかけられる。
振り返れば、そこには件の警察…僕を救った男が立っていた。
「あら、杉本さん！今日もいらしてたんですね！」
「えぇ、黒井先生にアイゼクト君のリハビリに関して、定期経過を伺おうと思いまして…。どうやら頑張っている様ですね。」
「ええ！それはもう！」
杉本と呼ばれた男は、銀縁の眼鏡の奥で僕へウィンクする。何と言うか、遊んでそうな男だ。
体型はひょろっと小柄に見えなくも無いが、スーツの隙間から覗くサスペンダーの浮き具合から、彼の隆々とした筋肉量が伺える。
…因みにアイゼクトというのは僕の名前だ。
事故後、彼から名前を聞かれた時に咄嗟に出たものだ。
まさか、組織でのコードネームを喋る訳にもいかないからね。
…ていうか名前なんて無いし。
このアイゼクトという単語は、捨てられた時に包まれていた毛布に刺繍されていた単語なのだが、何となく語感が気に入っており、今日まで使用している。
正直自分の名前なのか、それともただのメーカー名なのかも分からないが、前者だったら嬉しいと思っている。
「それでは、そろそろ面談の時間なので失礼致します。アイゼクト君も頑張って下さいね。…何かあれば、すぐにお知らせ下さい。」
彼は軽く会釈をすると、踵を返して出て行った。
見た目にそぐわずマメで低姿勢な男だ。
…それにしても、表向きにはただの事故被害者である僕なんかに、何故こんなにも構うのだろう？
…本当の身元がバレている可能性…無きにしも非ず、だ。
なんせ日本、それも下町の警察だ。
僕目線で見ても情報の収集能力は伊達じゃない。
油断はしないに越したことはないだろう。
「…ダスビダーニャ。」
僕はキュッと口元を結ぶと、再び足元に力を入れた。
…
……
………
カッ コッ カッ…
その日の午前2時。
深夜の病室では、時計の音のみが緩慢なタップダンスを許されている。
身体の節々は昼間のリハビリのせいで未だにヒリヒリと熱を孕んでいた。
日中に張り切りすぎたせいか、はたまた以前の訓練の賜物か、この位の時間になってもあまり眠くはならない。
スナイパーには72時間ターゲットに集中し続ける空想同一化という訓練があるが、諜報の訓練はそれに近い事もやらされる。
眠気の有無など、自分の意識でどうとでもなるのだ。
とはいえ、深夜の病院の空気が良いかと聞かれれば、当然そんな筈は無い。
喩えるなら、いくら払っても払っても粘り付いてくる蜘蛛の巣。
それに延々と捕らわれている感覚だ。
「……」
ベッドの上で、身体が痛まない程度に寝返りを打つ。
深夜の病院で一人だと、どうしても嫌なイメージが脳にこびり付く。
それは死のイメージであったり、おば…非科学的存在だったりだ。
「……眠るか」
こういう夜は無理矢理にでも意識をシャットダウンするに限る。
眠気を飛ばす技術があるのであれば、当然その逆も然りだ。
本来は拷問を受けた時に利用する手法だが、こんな所でも役に立つとは。
僕は目を閉じて深呼吸する。
脳内では体と精神の分離を意識し、それぞれを丸い型に流し込むイメージ。
この手法を極めれば、3度の呼吸の内にふっと意識を闇に落とす事が出来るのだ。
3…2……1………ん？
泥の様な眠気が意識を覆う直前、何かの違和感を感じ取り、ふと呼吸を止める。
背筋に極僅かなひりひりとした電気信号が走り、下半身がぞわぞわと強張っていく。
この感覚は…間違いない。何か、危険が迫っている時の感覚だ。
お化けとかそういう類いでは無い。
恐らく、敵意を持った何者かが近くに居る。
動物はある種の捕食行動を行う時、脳から微弱な電気信号を発しているらしい。
生存能力に長けた動物はその感応性が高く、鋭敏にその信号をキャッチし、難を逃れるという。
狼達と暮らしていた時は、この感覚に幾度も助けられた。
しかし、運動能力の著しく落ちた現状では、その感覚も黙示禄のラッパにしか感じない。
来るのが決まっているのならば、いくら劣勢でも迎え撃つしかないからだ。
「（どこか…不意を突けそうな場所は…）」
0.4秒で病室を見回し、備え付けの天棚が目に入った。
僕はその下の木棚に足を掛ける。
静かに、しかし確実に。
息を切らしそうになるのを必死にこらえながら天棚に潜む。
「(来るなら来い…)」
相手が何者なのかは分からない。
組織に生存がバレたのかもしれないし、日本帝国の工作員かもしれない。
誰にせよ、僕に害為す者なら排除しなければならない。
天棚に潜り込んだ数瞬後、チャリ…と静かに静かに部屋のドアノブが回った。
そのままキイッという音もなく扉が開き…ぬうっと白衣に身を包んだ大男が現れる。
手には謎のダクトテープを携え、顔は張り付いたような笑顔。
この男は…
シャカシャカと自分の脳内データベース内で男を照合する。
ああ、あった…こいつは小児科医のドウジマだ。
物腰柔らかくいつも笑顔。子供にも優しく通院患者には人気が高い。そんな男だ。
…が、盗み聞きをした限りでは、入院患者の間ではすこぶる評判が悪い。
皆理由に関しては、何かに怯えているのか口を閉ざすばかりで、その先はデータが無い。
そんな男が、本来全く医療に必要の無いテープを持って部屋に侵入してきたのだ。考えられる理由はただ一つ。
この状況を切り抜けるには…なんとか戦って相打ち以上に持ち込むしか無い。
僕は風音すら立てずに彼の真後ろに滑り込む。
ラグーコフツェンナイツィエという暗殺歩行術だ。無駄に長い。
本来であれば味方の作った隙を縫って懐に入り込む技術だが、こう暗いとそれも容易い。
後ろ手に扉を閉めた男は、もぬけの殻になったベッドをきょとんとした表情で見つめた。
……今だ。
つま先で小さくジャンプをすると、身体を一回転半捻り。
そのまま全体重を乗せた踵を鞭のように打ち付ける。
男の首筋に吸い込まれるようにその鎌はヒットし……
ゴカリ
骨のズレる嫌な音。
いい当たりだ。これなら一撃でやれた気が――。
「――痛ｩッ…！」
しかし、驚いた事に苦悶の声上げているのは自分だった。
突如生じた激痛に、反射的に顔が歪むのを感じる。
あぁ誤算だった。骨がズレたのは恐らく、自分の骨だ。
足首が違和感のある方向に曲がってしまって。
まさかここまで極端に弱っていたとは…！
「ぁぁぁああ痛ったぁ…」
ドウジマは首を抑えて屈む。
蹴りのダメージが全く無かった訳では無いみたいだが、非常にまずい。
「…いきなり先生の首を蹴りあげるなんて、とんでもないガキだなぁ。」
怒りが薄らと滲んだ、しかしほぼ無表情な顔で彼が睨んだ。
まずい。
僕は立ち上がろうとするものの、役立たずの足が痛みで動かない。
「…おや、おや、どうやら今のイタズラで足を痛めたみたいだねェ…どうれ、先生が診てあげようねェ」
ドウジマは奥歯まで見えそうな程口角を引き上げると、ダクトテープをビッと引き延ばした。
あれで拘束するつもりなのだろうか。
こいつが何をしようとしているのか、具体的な想像が浮かんでしまい背筋が凍る。
「…！」
僕は立つのを諦め、動く片足と手で這いつくばって扉を目指す。
扉を開けて声を上げれば、宿直が気付いてくれるかもしれないからだ。
だが相手は大柄の大人だった。
ゆっくりと近付かれているにも関わらず、歩幅ですぐに距離を詰められてしまった。
「待て待てぇ、駄目じゃないですかァ、安静にしていなきゃ…」
扉のノブを握った直後、僕は曲がった足首を掴まれて引き摺り戻される。
「ッ―――！」
痛みに顔が歪む。
引き摺られながも無事な方の足でガンガンと男を蹴るが、衰えた足では到底ダメージを与えられない。
「やっぱ骨、ズレちゃってるねェ。どうれ先生が治してあげようねェ!」
ドウジマが無理矢理ズレた足の骨を、正常な位置へと押し込んだ。
それはもう、嬉しそうに。
ゴキリ
「あ゛！！！！」
瞬間、脳がバグるかと思う程の衝撃が足から登ってくる。
それが痛みと気付くのは数瞬後だった。
生理的な反応で目元がじわじわと湿っていくのが分かる。
声を上げようにも、陸に打ち上げられた鯉の様に息を忘れてしまい、言葉が出てこない。
「痛かった？ごめんね？痛かった？」
ドウジマが爽やかな、にこやかな表情で問う。
到底加害を加えた人間がして良い表情ではない。
間違いない。こいつはペドフィリアでサディストの狂人だ。
一瞬、ロシア関連のスパイという線も疑っていたが、その可能性は狂笑の前に掻き消えた。
皆が彼に関して一様に口を閉ざすのは、報復を恐れての事なのだろう。
一体…この病院には、彼の毒牙に掛かった者は何人いるんだ？
どうにか、どうにかしてこいつから逃げなくては。
「"痛い"って顔してるねェ…いいねいいねいいよ、僕そういうお顔が大好きなんだ。痛みを与えた瞬間の"何で？"っていう呆然とした顔も大好きだしそのすぐ後の助けを請う様な顔も、少年少女の"無垢さ"を感じる事が出来るから大好きなんだ。病院はそんな顔が合法的に見れるからほんと良い所だよ。最高だねェ。」
笑顔を崩さず、ドウジマが饒舌に喋りだす。
狂人がゾーンに入った状態とでも言えるのだろうか。最悪だ。
エンドルフィンが過剰に分泌されている状態の人間にダメージは通りにくい。
ただでさえ力の弱っている僕にとっては弱り目に祟り目だ。
八方塞がり。万事休す。
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
そうなればもう、これしかあるまい。
「誰か助け――！」
ドツッ
鈍い音がして、一瞬視界が白飛びした。
身体に目を向ければ、ドウジマの拳が腹部にめり込んでいた。
「お、ぅ、ぇ」
嘔吐感が腹の底から登ってきて、思わず床に胃液を吐き出した。
更に最悪な事に、ショック状態なのか呼吸も難しい。
足の痛みから来る精神的なものと、腹部の圧迫から来る物理的なもの。
流石にこれを同時に貰うのは僕も初めてだった。
「びっくりしたなァもう。日本語、喋れたんだねぇ。ダメだよ、病院は静かにしなきゃ。」
彼は僕の顔を無理矢理抑えつけると、ダクトテープを口元に張り付けた。
細目で笑顔を作りつつ、指を口元に当て「シーッ」のポーズを作る。ふざけるな。
細い腕を振り回し、ドウジマの横顔を殴打する。
しかし、脳内麻薬が出ているであろう彼は意に介さない様に僕の腕を掴むと、口元と同じくグレーのテープでぐるぐる巻きに拘束する。慣れた手つきだ。くそったれ。
続けざま、脚も同じように拘束されてしまう。激しい痛みにより抗う事もままならない。
攻撃も叫びも封じられてしまった。無様にも程がある。
僕は芋虫の様に、情けなく床に転がった。
「アーイイ！！」
ドウジマが恍惚とした表情で奇声を上げる。
怖い。次の一手を考えられない状況では、恐怖が徐々に心を支配する。
考えろ、この状況を覆す方法を、考えろ！ 怖い。
「達磨人間みたいに無様で本当に可愛いねェ…。毎回そうだけど、人を転がすこの瞬間は本当に心が躍るよ…心配しなくてもこれからたっぷり遊んであげるからね…。
知ってたかい？リハビリテーション入院している子は痣が多いからサ、身体に多少生傷をつけてもバレやしないんだヨ。
特にキミはそうだなぁ…根性もあるしSLEの痣もあるから、普通の人よりた〜くさん楽しめそうだね！」
息荒げなドウジマは狂気的な笑顔を絶やさず、腕を振り上げる。
ドズッ
「ーー！！！」
腹部に再び重い拳が振り落とされた。
一度打ち付ちつけられた拳は、すぐさま振り上げられ、再び腹部へと叩きつけられる。何度も何度も。
鈍く重い痛みが激しくのし掛かり、気を失いそうになる。
対抗策を講じる間も与えられずに、今度は続けざま脇腹に激痛。
どうやら今度は足で蹴り上げられたらしい。
痛みの波に四方八方から蹂躙され、最早前後不覚だ。
苦悶と涙で汚れる僕の顔を見て、ドウジマが興奮した様に目を細める。
「んん…ンッ！！イイねぇその顔…！君は反抗的だからしっかりと教育しなきゃねェ…！さっき蹴られた首がまだ痛いんだヨ！！」
「…！…！！」
抗い様の無い恐怖に、心の侵食がじわじわと進んでいくのを感じる。怖い…恐ろしい…駄目だ…。
再び彼の腕が振り上がる。
「ごめんなさいは！！？」
ドスッ
「ンﾞッ…！！」
「ごめんなさいは！！？」
ドスッ
「ヴ…！！」
「ごめんなさいは！！？」
ドスッ
「ンﾞェﾞ…！」
狂気だ。
恐らくこいつは小児性愛や加虐性愛だけではなく、恐怖支配の倒錯まで持ち合わせている。
狂ってる。マトモじゃない。
目の前にいる大男が、人の形を取ったバケモノにしか見えない。悍ましい。
ふと、脳裏で敵国でスパイ中に見つかった仲間の末路がリフレインする。
くそ、くそ。ふざけるなよ。
どうして最早死に体の僕がこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
腕が振り下ろされる度、視界がどんどん狭まっていく。
意識が遠のいている証左だ。
この理不尽に理由なんてものは恐らく存在していない。
なんなんだよ、生まれた時からそうだけど、僕の人生むちゃくちゃじゃんか。
親に棄てられ獣が育て、軍に捕まり暗部で仕事、かと思えば瀕死の大怪我を負って今は男に殴られてる。
クソ漫画だってもう少し緩急つけたプロットで筆を執る。
ドスッ
「(い、嫌だ…)」
ドスッ
「(も…もう…)」
ドスッ
「(駄目だ…)」
拳が振り下ろされる度、僕の心の柱にヒビが刻まれていく。
ああ、もう流石に心身共に限界だ。耐える事に疲れ果ててしまった。
折られる、折られてしまう。
暴力に屈し、心が、二度と立ち直れぬ程に。
狂気に満ちたドウジマの勢いは衰えない。脆い僕の身体のに対して、骨を折らずに的確にダメージを与えていく。
内臓が裏返る様な痛みと吐き気の奔流に抗う事が出来ない。
極端に狭まった視界。
何度も見た、振りあがる拳。
あと一撃でも貰えば僕の意識はシャットダウンし、起きた頃には恐怖に完全に屈服してしまった僕の心と、ボロボロの身体だけが残るだろう。
無慈悲に振り下がる拳、受け止める精神力はゼロ。
ああくそ…せめて…せめて最後は、こいつの顔を見ずに意識を落とそう。
そう思い、ドウジマの顔から視線を外す。
廊下から漏れる非常灯の緑が、病室の天井に反射する。
目が滲んでいるからだろうか、それらは幻想的なオーロラのようにさえ見える。
「(あぁ…無様だなぁ…僕は…)」
朦朧とした意識の中、目を瞑って最後の精神の灯火が潰えるのを待った。
しかし同時に、無意識的に思惟する。僕の記憶が正しければ、部屋の扉はドウジマが閉めた筈だ。
であれば廊下の非常灯の灯りが漏れているのは何故だ？説明が付かない。
もしかすると、朦朧とした意識下の中見た泡沫の幻想だろうか。それとも病院に蔓延る非科学的存在の一端だろうか。何故だろう…理由は分からない。
いずれにせよ───あれ？そういえば。
先程から、振り下ろされた筈の拳の衝撃を感じない。
こんな意識下ではどのくらいの時間思考をしていたのかは定かではないが、悠に5秒10秒は経ていた様に思える。
「(一体…何が…？)」
僕は恐る恐る瞼を開く。
すると、そこには信じ難い光景が広がっていた。
大柄な体躯から繰り出される垂直落下の拳を、小柄な男が片腕で受けている。
男の背後、真下から見上げる形になっている為に顔は伺い知れないが、その男が恐ろしい闘気を立ち登らせている事は、火を見るより明らかだった。
すかさず、小柄の男が反対側の腕をしならせる。
めしり
脇腹に深々と入った拳は、1拍遅れてドウジマの身体を吹き飛ばした。
「がぁっ…！」
巨大な質量が吹き飛ぶ。
壁に叩きつけられたドウジマが、信じられないといった面持ちで床に目を落とす。
がっくりとうなだれた肩からは先程の威勢は感じられない。
「やれやれ、嫌な勘というのはどうも、よく当たってしまいますねえ。」
小柄な男がスーツの襟を正し、こちらを向き直る。
その男は僕も良く知るあの男――下町が誇る権力の粋――警察官、杉本だった。
「大変遅くなりまして申し訳御座いません。もう大丈夫ですよ。」
彼は手際良く僕からテープを剥がしていく。
「スギ…モト…」
「無理して喋る必要はありませんよ。さぁ、目を瞑ってゆっくりと息を吸って…今はただお眠り下さい。」
「…うん……」
何故だか、もう絶対に大丈夫なんだ、助かったという安心感が僕の胸に込み上げた。
一度は彼に救われた身だが、また貸しが増えてしまったかな。
何故彼が突然この場に現れたのかはさっぱり分からない。
だが、神出鬼没なこの男だ。何か考えあっての事なんだろう。
ああ…そんな事を考えるよりももう…随分と眠くなってしまった。
…久々だな、自然な眠気を感じたのは。
でも結構…悪くないもん…だね。
僕はそれまで必死に握り続けていた意識の手綱を、ゆっくりと手放した。
…
「眠りましたかね…おやすみなさい。アイゼクト君。」
「…さて、次は貴方に用があります。」
軽い彼女を部屋隅のベッドに運び置いた後、銀縁の眼鏡を中指で押し上げ、再び現行犯…堂嶋へと向き直る。
壁に項垂れていた彼といえば、丁度膝に手をつき体制を立て直す所だった。
「はぁ…やれやれ。私の一撃を喰らってもなお立ち上がるその身体、頑強なのは人として羨ましいばかりですが、正直な所厄介ですねぇ。」
アイゼクト君には申し訳ない事をした。
私がこの病院に入院させなければ、この様な暴力に晒される事も無かったろうに。
誰に言うわけでもありませんが…本当に申し訳無い。
あぁだがしかしその一方で…おかげでこのクソ野郎を見つける事も出来た。
これに関しては不幸中の幸いだ。
黒井先生との「面談」が伸びに伸びたおかげで、こんな時間まで拘束されてしまったが、収穫は大きかったという訳だ。
最近、入院中の小児患者が不審死を遂げる事例が頻発していたので調査をしていたが、その一端は恐らくコイツが握っているのだろう。
自身の欲求の為に、か弱い子供を狙ったその蛮行、加えて医者という立場でそれを行った事。
どちらもとんでもない下衆た行為だ。恥を知れ。
「グ…ゥ…ざけ…るな」
「はい？」
「…ふざけるなよぉぉおお！！」
突然、激昂した堂嶋が掴みかかってきた。
まるで自慰行為を見られた中学生の様な感情的行為だ。
「黙ってお縄につけばいいものを…。」
大振りな両腕を屈んで躱し、懐に入り込む。すかさず懇親の肘打ちを鳩尾に決める。
「お…ゴ…！」
「痛いですか？そうでしょうね。そのようにやってますので。」
チャキっと眼鏡を正した後、腰を丸めた堂嶋の襟首を掴み、そのまま軸足を弾く。
「ちゃんと受身を取って下さいね。」
背中に彼の身体を乗せ、遠心力で壁へと投げ飛ばす。
勢いの乗った肉の塊は、白衣をたなびかせた後、大きな音を出して壁へと激突した。
「ぐぁは！」
壁に叩きつけられ、床に墜落した堂嶋が、池の鯉みたいに苦しそうに口をパクつかせる。
受け身に失敗し、背中からモロに叩きつけられた為だ。
「フゥーー…。」
私は無感情に、しかしいかにもといった感じで溜息を吐いた。
「だから言ったじゃありませんか。受け身くらいテメーで取れと。」
そんな事を言いながら、カツ、カツ、とゆっくりとした歩みで彼に近付いていく。
「私は小児性愛者でも無いしサディストでもありません…なので1回。1回だけです。」
歩みを進めながらジャケットを脱ぎ捨てる。
上質な生地で編まれたそれには、シワひとつ無い。
ワイシャツは汚れてもどうとでもなりますが、ジャケットは後が面倒ですからね。
「ですがこの1回に…皆の怨みを込めましょう。私が代弁…というのもおこがましいですが、せめてもの弔いになればと思いましてね。」
事態を察したのか、未だ酸素不足に喘ぐ堂嶋がジタバタとその場を離れようとする。
それをすかさず足で踏み留める。
「…貴方の職業は何ですか？本来ならばその腕は、人を救う為だけに振るわれるべきものの筈です！なのにどうですか現実は！己が欲求を満たす為に、若い命を弄ぶなど…到底許せる事ではありません！」
闘気をゆらりと孕んだ拳が、怒りに戦慄いているのが分かる。
まだまだ自分も青いという事でしょうか。
情動的に動くのは警官らしくありませんが、今宵この場で誰が見ていると言うのでしょう。
「堂嶋 央造32歳。午前2時36分現行犯逮捕。残りの人生をかけて、亡くなった方やその家族の為に償いなさい！」
白いワイシャツの中、はち切れんばかりの筋肉を引き伸ばし、腕を振りかぶった。
「恥を知りなさい━━━━━━！！」
………
……
…
「うし、今日の所はこんな所か。リハビリお疲れさん。」
「いたっ」
綺麗で広々とした、まるでホテルの一室の様な病室。
そのだだっ広い空間の中、主治医の男がカルテでボクの頭を小突く。
ムッとして顔を上げれば、赤毛のその男は悪戯っぽく口角を歪ませた。
波間大学付属総合病院での一件以来、黒井先生と杉本の間でどんな取り交わしがあったのかは定かではないが、僕はスメラギ製薬が運営するスメラギ総合病院へと入院先を移していた。
「オイオイ、噛み付くな『ワンちゃん』。カワイイ顔が台無しだぜ。」
「ぉ…は！？…か、かわ…」
目の前に居る飄々とした男はドクター・アマツ。
赤毛の短髪と健康的な肌色は、彼をかなり若々しく見せているが、これでもそこそこの年齢ではあるらしい。
…と、本人から聞いている。
こいつはいつも定期治療後のボクのリハビリに付き合ってくれるが、毎回毎回こういう風に冗談を言ってくるからニガテだ。
…じゃないな、というよりは…なんだかムズムズするからやめて欲しい。
…ちょっと胸が苦しくなる。
「なんだ？照れるなって…初見で殴りかかってきたヤツとは思えないぜ。」
「んななっ…ぅぅ…」
う…痛いところを。
数ヶ月前にアマツと初めて会った時、僕は衝動的に彼に殴り掛かってしまった。
精神的に弱っていたという所為もあるが、彼がロシア商船でボクを裏切ったアイツにそっくりだったからだ。
なんとも情けない話だ。
今思い出しても、色々な悔しさと悲しさと恥ずかしさでシュンとしてしまう。
「おっと…別に責めるつもりで言った訳じゃねーよ。ごめんなアイジー。そんな落ち込むなって。」
「元気な子は好きだぜ？」
彼が、喉を鳴らすような低音でボクを宥める。
無骨な指が髪を撫ぜ、触れられた箇所がじくじくと熱くなっていく気がした。
「ゎ…う、うん…アマツならべつに…いい。」
アイジーというのは彼が勝手につけたボクの愛称だが、
今まで周りからアイゼクトとしか呼ばれなかった中、なんだか特別扱いされている様で嬉しかった。
「綺麗な髪だな…ああそうだ、ところで…今回のテレポーター被験はどうだったよ。」
「え？ああ…うん。」
彼はボクにお預けをするかの様に、撫ぜていた手を離す。
頭から体温が離れ、代わりに少しの涼しさと寂しさが銀髪を揺らした。
そうなれば、ボクはご褒美を求める犬みたいに饒舌になってしまう。
「あれか…まぁ正直、何度やっても慣れないよ。身体が分解…されてるんだっけ？細かい原理は僕には分からないけど…正直ゾッとするね。」
telediagnosis porter、略してテレポーター(らしい)。
最近、スメラギテックの技術の粋を集めて政府が開発している新たな医療機器だ。
特殊な電磁ホール内に入ることで身体を原子分解し、同時に病原体や悪性細胞を除去した上で、身体を再構成する。
難しい原理はよく分からないが、かなり無茶苦茶な事をやってるのは間違いない。
僕は黒井先生と杉本の口利きで、その治験被験者に選ばれていた。
割ととんでもない取り決めではあるが、裏を返せばそれだけ僕の症状が治る見込みの無いものだったと言う訳だ。
「なるほどな、んで？身体はどうだ？不調とかはないか？」
「え？ああうん…正直ボクもびっくりするぐらい良くなってるよ。…今までのリハビリは何だったんだ？ってくらい。」
事実、テレポーターの医療的効果は絶大に感じた。
あれだけしんどかった運動も、かなりの時間出来る様になった。
身体の節々の脆さも全盛期からは程遠いにせよ、健康と言えるまでに快復している。
「なるほどな、そいつは良かった…どれ、ちょっと見せてみろ」
ふと、アマツがボクの顎をクイッと持ち上げる。
視界は彼の端正な顔を大きく写し、それが徐々に僕に迫る。
「…！？わ、わ、わ！」
えっ嘘だろままままさか、このタイミングで！？
ま、まってよまだ心の準備が…！
僕はきゅっと思わず目を瞑り、"その時"に備えた。
……が、暫く待ってもその時は来ない。
え？あれ？此処で来ないの？なんで？
恐る恐る目を開くと、アマツが目を細めて何やら呟いていた。
「…血色は良いな…病痕も無くなってる…裂傷も無いと来た…こりゃあやっぱ、とんでもねぇ代物だな…」
「…ん？ああ、悪いなアイジー。どうした？目にゴミでも入ったか？」
きょとんとした顔に変わったアマツが、不思議そうに尋ねる。
……どうやら何かボクは恥ずかしい勘違いをしていたらしい。
「な…なな、おま、お前ぇ…！」
「顔を！！近付けるな！！！！」
ボクは出来る限りの怒った顔をしようとしたが、顔中が火照ってうまくそれが出来ない。
くそ、あぁくそ、恥ずかしい。
穴があったら頭から飛び込んでブラジルまで行きたい。
しかし。
ボクの焦燥に何か勘づいたか否か、悪戯に彼の口角が上がる。
そしてグイっとボクの耳元に口を近付け、囁いた。
「焦んなって…アイジーが完全に元気になったらいくらでも…シてやるからさ。」
…ゔ？？？？
それを聞いた途端、鳩尾に激しいブローを叩き込まれた気がした。
うぇ、何？ も、もしかして殴られた？？？
………あ、違う、違うなこれ、ボクの心臓がとんでもなく脈打ってるんだ…
「ぁ…ぅ…ぉ…。」
驚きと照れで何も言葉を紡げずに口をぱくぱく。
そ、それってそれってつまり…そういうコト…なんだよな？
アマツもその…ぼ、ボクの事…。
いや、″も″っておまえそれは…！ち、違う違うそんな！
「…はは、いい子だアイジー。それで、テレポーターの治験はどこでやったんだっけ？」
「…ぁぅぅ…び、B棟の807…」
頭がくらくらする。
ヒマラヤの山頂みたいに空気は薄く感じるし、密漁船に乗った時みたいに足元は覚束無い。
アマツが何を言ってても、言葉はぽーっと右から左へ乱反射して抜けていく様だった。
「…そうか、んじゃあ今日の検診はここまでだ。…次もリハビリ頑張れよ、アイジー。」
「……うん…」
アイジーと呼ばれる度に、甘い反響が脳内で跳ねる。
ドラッグにもある程度の耐性があるボクだけど、この薬物は…あまりにも…やばいや。
「それじゃ、また明日な。」
アマツがすっくと丸椅子から立ち上がり、背を向ける。
「…！ま、待ってくれ！」
ふと、一抹の寂しさが我慢出来ず、呼び止めてしまった。
アマツはぴくりと立ち止まり、数瞬後に薄らとした笑顔で振り向く。
「どした？アイジー。」
「…あ、あの…ボクもドク……アマツの事……名前で呼んでもいいかい…？」
何か、ボクも彼に対してトクベツが欲しかった。
アマツは少しだけ考える様な表情を作ったが、すぐに元のにこやかな顔に戻ると、爛と優しげに言った。
「…ああ。いいぜ！」
「俺は……そうだな、ま、いいか。義景って呼んでくれ。」
「……！うん！…義景！」
義景はニッコリと笑顔を作ると手をひらひらと裏表させ、今度こそ病室から立ち去った。
「よしかげ…義景……えへ。」
義景が出ていった扉をいつまでも見つめる。
おもちのように熱く膨らんだ頬を両の手で持ち上げれば、指の間から湯気が出てきそうだった。
………
……
…
「…よし、今日はこんなトコか。おめでとうアイジー、これならもう数日後には退院出来るだろう。」
「ほ、ホントか！？義景！」
今日もいつものリハビリが終わり、その後の問診時に義景がポツリと。そんな事を呟いた。
退院…久しぶりの響きだ。ようやく…本当に、本当に長かった。
商船の事故から約一年。
ほぼほぼ寝たきりの状態だったのにも関わらず、ここまで快復する事が出来たのは、スメラギの科学力と義景が支えてくれたからだろう。
そして、退院という事は…全快、完全に元気になるというワケでして…。
「…あ、あの…えーと…義景…その…」
なんだかボクからねだってるみたいでとても居心地が悪い。
でも、そういう約束したもんな。
「…ん？どうしたアイジーモジモジして。トイレなら気にせず行ってきて良いぞ。」
「ン゛！！違う！！！！」
思わず唸ってしまった。
それを見て、義景が思わず吹き出す。
「……く、アハハ！冗談、冗談だアイジー、謝るからそんな真っ赤になって怒るなよ。」
「…分かってるさ、沢山楽しむって約束したもんな?」
スッと。
あの時みたいに義景が耳元で囁く。
シチュエーションもそうだけど、少し思い出してしまい胸が高鳴った。
「ぁ……ぅ、むぅ。」
顔が熱い……。
「さて、とはいえ問診は大事だ。続きいくぜ。」
「う、うん……。」
はぁ、最近こんなのばっかだ。
ボクとしては嬉しいんだけど…。
「治験の部屋は最上階のB棟、角部屋807で間違いないな？」
「そう、だね。間違いないよ…。」
義景はボクの事をどう思ってるんだろ？
「ふむ。んで、テレポーター自体は折りたたみ式であんまりデカくは無いんだっけか？」
「うん…ぼ、ボクがいつも使ってるのは折り畳んで小型化出来て、天井からぶら下げるタイプのやつだったよ…。」
でも…そういう…キ…の、約束をしてくれる位なんだから、きっと彼もボクの事…。
「オーケイ、いつもそこには研究員が常駐してるんだったか。医者はいるのか？」
「い、いや。医者はボクがテレポーターを使う時に一緒に入るからそんな事無いよ。エンジニアっぽい人が2、3人くらいかな。」
ああっダメだダメだ。
頭の中が約束の事で一杯になりそうになる。
顔なんてもう絶対真っ赤だろこれ。
恥ずかしくて更に赤くなりそうだ…うう…。
「フムフム、入室にはカードキーが必要なのか？」
「ううん、確か扉にカメラがついてたから、ボクが映れば開くタイプなんじゃないかな…。」
ど、どうしよう…でももうすぐ退院だろ？
ボクから告…ええでもそんな勇気無いぞ！？
無理無理無理！！
「そうか…よし、アイジー。」
「…！は、ハイ！！」
ほぼほぼ脊髄反射的に喋っていた所に急に名前が挙がるものだから、素っ頓狂な声を上げてしまった。
カクテルパーティー効果ってやつだ…。
「お前、今日深夜に抜け出せたりするか？」
「えっ…う、うん！出来る！出来るけど！？」
「そうか、それならB棟の最上階で2時頃に落ち会えないか？」
「2時！？ま、まぁいいけど…一体なんで？？」
「あン？…あーそうだな…まぁ、色々今まであったけどさ、俺もアイジー見てたらそろそろ我慢出来なくなってきたんだ…。だからさ、退院まで待たずに…そろそろイイだろ？」
切れ長の瞳がニヤリと笑った。
「う、」
僕はその意味を一瞬で咀嚼した。
つまり…人の目を盗んでそういう事を…！？
あ、あああ、遂にこの時が。
「わわ、わ、わかっ、た。」
ボクにはそう言うのが精一杯だった。
蒸気機関みたいになった頭から理性と思考がしゅっぽっぽーと抜けていく。
「ハハ、そう緊張すんな。そんじゃな。夜、楽しみにしてるぜ。」
彼はヒラリと身を翻してウインクをする。
懐から携帯を取り出しつつ、ヒラヒラと手を振って足早に部屋から去って行く彼を、僕は酸欠の鯉みたいに口をパクパクさせつつ見送る事しか出来なかった…。
ああ…ボクは今日、ひとつ大人になります…。
………
……
…
深夜2時。
暗い廊下の中、緊張と興奮で足が震える。
やっとの事でたどり着いた最上階のランデブーポイントには、義景が佇んでいた。
「よぅ、ちょっと遅かったな。」
「ご、ごめん。緊張しちゃってさ…」
わななく正直な心情を吐露する。
義景はそれを聞いてふっと笑い、つぶやいた。
「でも、来てくれて嬉しいぜ。そんじゃ、どっか良い部屋でも探すか…。」
「ん…」
彼はボクの腰に手を回し、闇の中をいざなった。
こうなるともう、伏し目がちで言葉も少なくなってしまう。
暗い廊下をカツンカツンと奥まで歩いていくと、重厚な扉に閉ざされた部屋がひとつ。
ボクがよく知るテレポーターの部屋だ。
「うっし…ココにしよう。」
「…ん………え？」
は？？
ちょ、ちょっと待って。
ここは昼夜問わずエンジニアが詰めている筈じゃないか…！？
そんなトコでし、しようだなんて何考えてるんだこいつは？？？！
そんな僕の思いとは裏腹に、無常にも扉はボクを認識してヴンと開く。
狼狽えるボクをよそに、義景はズカズカと進んでいく。
部屋の中には当然、3人程の男性…テレポーターエンジニア達だ。
皆、夜勤で乾いた目を擦り、ぽかんとパソコンからボクらに視線を移す。
通常であれば、こんな深夜時間帯にドクターとクランケが来るはずが無いから当たり前の反応だ。
そして部屋の中央には天井から吊り下げられたテレポーター。
今は電源等のコード類は外され、その楕円はだらし無く口を開いている様に見えた。
「ちょ、ちょっと待ってって義景！いくらなんでもこんな所で…！」
「ハハ…ちょっと静かにしててな、アイジー。」
義景がシーッと指を唇に当てる。
それが何を意味しているのか分からなかったが、その悪魔が誘う様な低音ボイスにボクは締め付けられ、何も言えなくなってしまう。
義景はそのまま一歩前へ出ると、徐に叫んだ。
「俺はこのアイゼクトの経過管理ドクター、尼野だ！彼女にテレポーター使用試験を受けさせたのは誰だ！！」
「!?」
は？？いきなり叫んでどうした義景！？
ていうか誰だよ尼野って、噛んだのか？？…などと言う暇も無く、普段からは想像もつかない鬼の形相で叫ぶ義景。
その気迫に流石のボクも気圧されてしまう。
義景が一番近くにいた若いエンジニアの胸倉を掴む。
「お前か！！？？」
「い、いえ！！私なんか下っ端で何の権限も」
「お前達の所為で彼女の身体はボロボロだ！！！分かってんのか！！！」
義景は間髪入れずに顔を軽くはたく。
と、同時にエンジニアが白目を向いて倒れた。
「…ちょっ」
「な、何してるんですか！？」
「あン？いや…俺は何もしてねーよ。どうやらビビり過ぎて気絶したみてーだな、情け無ぇ。」
残った2人のエンジニアが狼狽える。
義景が言っている言葉の意味が分からない。
一から十まで分からない。
けど、一つだけハッキリ分かる事がある。
この義景という男、異常に喧嘩慣れしている。
今、エンジニアに行った小突き、僕にはその技術力の高さが垣間見えてしまった。
彼はインパクトの瞬間、手根のあたりを先に持ってきて、エンジニアの顎先を強打していた。そうすると何が起こるか。
揺れた顎は対角にある脳を最大効率で揺らす。
脳は頭蓋内で大きく揺れた事により瞬時に脳震盪を起こし、今目の前で起こったように意識が闇に落ちるのだ。
一介のドクターが原理理屈を知っているのはなんら不思議な事では無い。
だが、瞬時にそれを実証出来てしまうのなら話が別だ。
義景……君は一体何者なんだ？
「んで…そこの二人、お前らか？このポンコツを作ったのは」
コンコンと、義景がテレポーターを指でノックする。
「い、いえ…僕達はただの保守員でして…」
「ハァ…なら話にならねぇ。ぶっ倒れたコイツは俺が面倒見とくから、お前らはさっさと責任者呼んでこい。」
「え、えぇ！？…し、しかしこの時間じゃあ内線は不通ですし、権限のある社員も暫く遠い社員寮に帰寮しておりますし…」
「だったらさっさと突っ走ってでも引き摺ってこい！！医療器具も全部用意してな！！」
「え、あ、は…はい！！」
気圧された保守エンジニア達は、着の身着のまま部屋から飛び出していく。
暫くすると彼らの走り去る音も止み、辺りには久方振りの静寂が戻った。
全く以て何が何だか分からない状況だったが、二人で甘い時間を過ごすのは難しそうだという事は、嫌でも分かってしまう。
義景はといえば、倒れたエンジニアには目もくれず、テレポーターへ円形のシールをペタペタと貼っている。
なんだか嫌な予感がする。
ボクは震える声で彼に話し掛けた。
「な…なぁ義景…」
「ん？あぁ…悪いな、アイジー。」
シールを張り終わった義景が振り返り、ニッコリと笑う。
よ、良かったいつもの彼―――
「ごめんな、お前の事は、利用させて貰った。」
――は？
眉間の間を厭な汗が伝う。
「まぁ…もう会うことも無いだろうし、ネタばらしといこうか。」
「先ず…さっきの尼野ってのは、俺がこの病院に潜り込んだ際に使った偽名だ。」
「察したかもしれないが、俺は詐欺師だ。規模の大小はあれど、人を騙して食い扶持を繋いでる。」
「今回は特にデカい案件でな。スメラギが新規開発したテレポーターを奪うっつー、いち詐欺師にゃ苦重が過ぎる案件だった。」
彼の言葉が脳内でリフレインする。
詐欺師…？義景が…？
「此処まで来るのは長かった…準備期間も含めれば一年は掛かったんじゃないか？」
「潜入は簡単だったんだけどな、肝心のテレポーター関連の情報が全く出てこなかった。」
「だけど、最後のピースをアイジー、お前が埋めてくれた。」
「数少ない治験の被験者がお前で良かったぜ。」
ど……どういう事だ…？？
また僕は…利用されて裏切られたのか？
わなわなと、体中が情動で揺り動くのが分かる。
「あ、そうだ。さっきはああ言ったが、アイジーの身体は健康そのものだぜ。」
「退院ももう出来るのは嘘じゃない。おめでとう。」
違う、そこじゃない。
熱が、ゆらゆらとこめかみあたりから立ち上ってくるのが分かる。
「…な……なぁ義景……」
「あン？」
「…君が僕にかけてくれた言葉…どこからどこまでが…”嘘”だったんだ…？」
その問いに、義景は少し眉を潜めて考える。
「んぁー…そうだな…」
「…悪ぃ、9割方嘘だ！」
「………きぅ……わり……」
つまり…あの甘言も…ボクに気が有りそうなあの言葉も…
ピキンと、何かがキレる音がした。
こいつは…こいつはつまり…
ボ ク の 純 情 を 弄 ん だ 訳 だ な ？
「………ヨオオオォォォォオオシカゲェェェェェエエエエエエ！！！！！！」
生まれてこの方出した事も無い様な怨嗟のシャウトが、口を割いて轟き出る。
ビリビリと室内を音が反響し、余裕で嗤っていた義景も、少々ドン引きで顔を引き攣らせる。
「…あ、アイジー、お前細い身体でそんな声出せたんだな…」
「お前、お前！お前！！お前！！！！！！！ボクの…ボクの純情を！！！！絶対許さないからな！！！！」
ボクは固いタイル床を力任せに駆り、怒りに身を任せて彼へ距離を詰める。
「うっわマジかよコイツ、おいジル！！」
KABOOOOOM！！！！！！
義景が耳に指を当てて叫ぶと、同時に天井が大爆発を起こした。
ガラガラと崩落が起こる中、テレポーターと繋がった天井だけは綺麗に形を残し、さらにその上には太いワイヤーが伸びる。
はるか夜空の上空には黒いシルエットが見えた。
崩落する瓦礫を避けつつ確認している為に視認はし辛いが、恐らくあの大きさはチヌーク、輸送ヘリだろう。
ああそうかいそういう事かい。
話の流れからだいたい察した。
つまり、今とんでもない大事を行っているこいつらは義景の一派であり、ボクを散々利用した結果、テレポーターを輸送ヘリで奪取しようとしている訳だな？
…正直ボクは正義の味方でもないし、身体もほぼ治った今、こいつらがテレポーターを奪おうが何を奪おうがどうでも良い。
ただ…ただ一つだけ…ボクの純情を奪った義景だけは…義景だけは！！！
絶対に許さん！！！！！！！！
義景は楕円のテレポーターの縁に足を掛けて立つと、ニヤリと嗤った。
「わりいなアイジー！お前と過ごした数か月、割と楽しかったぜ！！！」
「ジル！飛ばせ！！」
ガラガラと瓦礫をまき散らしながら、テレポーターと義景が空に浮かぶ。
「待てやコラアアアアアアアアアア！！！！！！！」
完全にキレ散らかしてアドレナリンの塊になったボクは、狼の如きケダモノになっていた。
空から落ちる大きな瓦礫を次々に蹴り上がり、義景へと一気に距離を詰める。
「ゲッ！？嘘だろアイツ、何者だよ！！？あんなヤベー奴だなんて聞いてねーぞ！！」
先程よりも明らかにドン引いた義景が眼前に鮮明に映る。
「ボクの純情を！！！！！！！！返せぇぇえぇえええええ！！！！！」
こぶしに力を込めて、思い切り引き絞る。
そして一瞬の間を置いた次の瞬間、ボクの右腕は容赦無く義景に振りかざされた。
「ちっ！」
思い切り身を引いた反動か、義景は若干バランスを崩し掛けたものの、何とか堪えてボクの拳を避ける。
ヒュッ
ボクの拳は手応え無く白衣に当たり、虚しく空を切る。
運動エネルギーを失った身体は遂に、夜空から自由落下を始めた。
脳内物質の過剰分泌による時間感覚の鈍りか、ゆっくりと遠くなっていく義景。
彼は冷や汗を袖で拭うと、薄ら笑って言った。
「悪いなアイジー！俺ぁ意外といい歳してると言ったが、あれも嘘だ！まだ俺は18だし、女なら少し歳下の17位が良い！」
「15とはいえまだまだお前はガキだ！お前をからかうのは割と楽しかったぜ！マトモな恋愛して、次は騙されるなよ！じゃあな！！」
「…くたばれ！！！！！！」
ボクは中指をいつまでも奴へ立てつつ、地へと落下した。
数秒後、ガサガサという背中を襲う衝撃と共に、ボクは意識を落とす事になった。
………
……
…
バラバラバラ。
夜闇の中で安定した飛行を続ける中、座席に座った男が笑う。
「オイオイとんだ愛憎劇だったな。あんないたいけな少女を騙すなんてお前も隅に置けないな、色男。」
色男と言われた赤毛の男は、つまらなそうに愛想笑いした。
「ハ、何がだ。人を騙すなんていつもの事だろうが。」
「フフ…だな。まぁいい。それはそうと…クライアントへの報告はさっさとやっておけよ。」
「…ああ、分かってる。」
赤毛は白衣の内ポケットをまさぐる。
が、すぐに訝しんだ表情をすると、体中のポケットをバババと探る。
「ん？どうした？」
男が不思議そうな顔をする傍、恐る恐る赤毛が白衣の内側を広げる。
するとそこには、鋭利に一閃された穴が、内ポケットを食い破っていた。
「……………はぁ……あンの大馬鹿野郎……」
赤毛の男は深くため息をつくと、心底疲れた様に座席へ沈み込んだ。
………
……
…
『…もしもし』
『……ああ、そうだ。』
『……アマツ？…いや、ボクは……そうだな、その相棒といった所だ。』
『……ああ、問題無い。首尾はまぁ…うまくいったよ。』
『ボクか…………うん、"狼"とでも呼んでくれ。』
『ハハ……恩に着るよ。』
『……ところでさ……ランデブーポイントはどこだっけ？』
to be continued...
「いたっ」
綺麗で広々とした、まるでホテルの一室の様な病室。
そのだだっ広い空間の中、主治医の男がカルテでボクの頭を小突く。
ムッとして顔を上げれば、赤毛のその男は悪戯っぽく口角を歪ませた。
波間大学付属総合病院での一件以来、黒井先生と杉本の間でどんな取り交わしがあったのかは定かではないが、僕はスメラギ製薬が運営するスメラギ総合病院へと入院先を移していた。
「オイオイ、噛み付くな『ワンちゃん』。カワイイ顔が台無しだぜ。」
「ぉ…は！？…か、かわ…」
目の前に居る飄々とした男はドクター・アマツ。
赤毛の短髪と健康的な肌色は、彼をかなり若々しく見せているが、これでもそこそこの年齢ではあるらしい。
…と、本人から聞いている。
こいつはいつも定期治療後のボクのリハビリに付き合ってくれるが、毎回毎回こういう風に冗談を言ってくるからニガテだ。
…じゃないな、というよりは…なんだかムズムズするからやめて欲しい。
…ちょっと胸が苦しくなる。
「なんだ？照れるなって…初見で殴りかかってきたヤツとは思えないぜ。」
「んななっ…ぅぅ…」
う…痛いところを。
数ヶ月前にアマツと初めて会った時、僕は衝動的に彼に殴り掛かってしまった。
精神的に弱っていたという所為もあるが、彼がロシア商船でボクを裏切ったアイツにそっくりだったからだ。
なんとも情けない話だ。
今思い出しても、色々な悔しさと悲しさと恥ずかしさでシュンとしてしまう。
「おっと…別に責めるつもりで言った訳じゃねーよ。ごめんなアイジー。そんな落ち込むなって。」
「元気な子は好きだぜ？」
彼が、喉を鳴らすような低音でボクを宥める。
無骨な指が髪を撫ぜ、触れられた箇所がじくじくと熱くなっていく気がした。
「ゎ…う、うん…アマツならべつに…いい。」
アイジーというのは彼が勝手につけたボクの愛称だが、
今まで周りからアイゼクトとしか呼ばれなかった中、なんだか特別扱いされている様で嬉しかった。
「綺麗な髪だな…ああそうだ、ところで…今回のテレポーター被験はどうだったよ。」
「え？ああ…うん。」
彼はボクにお預けをするかの様に、撫ぜていた手を離す。
頭から体温が離れ、代わりに少しの涼しさと寂しさが銀髪を揺らした。
そうなれば、ボクはご褒美を求める犬みたいに饒舌になってしまう。
「あれか…まぁ正直、何度やっても慣れないよ。身体が分解…されてるんだっけ？細かい原理は僕には分からないけど…正直ゾッとするね。」
telediagnosis porter、略してテレポーター(らしい)。
最近、スメラギテックの技術の粋を集めて政府が開発している新たな医療機器だ。
特殊な電磁ホール内に入ることで身体を原子分解し、同時に病原体や悪性細胞を除去した上で、身体を再構成する。
難しい原理はよく分からないが、かなり無茶苦茶な事をやってるのは間違いない。
僕は黒井先生と杉本の口利きで、その治験被験者に選ばれていた。
割ととんでもない取り決めではあるが、裏を返せばそれだけ僕の症状が治る見込みの無いものだったと言う訳だ。
「なるほどな、んで？身体はどうだ？不調とかはないか？」
「え？ああうん…正直ボクもびっくりするぐらい良くなってるよ。…今までのリハビリは何だったんだ？ってくらい。」
事実、テレポーターの医療的効果は絶大に感じた。
あれだけしんどかった運動も、かなりの時間出来る様になった。
身体の節々の脆さも全盛期からは程遠いにせよ、健康と言えるまでに快復している。
「なるほどな、そいつは良かった…どれ、ちょっと見せてみろ」
ふと、アマツがボクの顎をクイッと持ち上げる。
視界は彼の端正な顔を大きく写し、それが徐々に僕に迫る。
「…！？わ、わ、わ！」
えっ嘘だろままままさか、このタイミングで！？
ま、まってよまだ心の準備が…！
僕はきゅっと思わず目を瞑り、"その時"に備えた。
……が、暫く待ってもその時は来ない。
え？あれ？此処で来ないの？なんで？
恐る恐る目を開くと、アマツが目を細めて何やら呟いていた。
「…血色は良いな…病痕も無くなってる…裂傷も無いと来た…こりゃあやっぱ、とんでもねぇ代物だな…」
「…ん？ああ、悪いなアイジー。どうした？目にゴミでも入ったか？」
きょとんとした顔に変わったアマツが、不思議そうに尋ねる。
……どうやら何かボクは恥ずかしい勘違いをしていたらしい。
「な…なな、おま、お前ぇ…！」
「顔を！！近付けるな！！！！」
ボクは出来る限りの怒った顔をしようとしたが、顔中が火照ってうまくそれが出来ない。
くそ、あぁくそ、恥ずかしい。
穴があったら頭から飛び込んでブラジルまで行きたい。
しかし。
ボクの焦燥に何か勘づいたか否か、悪戯に彼の口角が上がる。
そしてグイっとボクの耳元に口を近付け、囁いた。
「焦んなって…アイジーが完全に元気になったらいくらでも…シてやるからさ。」
…ゔ？？？？
それを聞いた途端、鳩尾に激しいブローを叩き込まれた気がした。
うぇ、何？ も、もしかして殴られた？？？
………あ、違う、違うなこれ、ボクの心臓がとんでもなく脈打ってるんだ…
「ぁ…ぅ…ぉ…。」
驚きと照れで何も言葉を紡げずに口をぱくぱく。
そ、それってそれってつまり…そういうコト…なんだよな？
アマツもその…ぼ、ボクの事…。
いや、″も″っておまえそれは…！ち、違う違うそんな！
「…はは、いい子だアイジー。それで、テレポーターの治験はどこでやったんだっけ？」
「…ぁぅぅ…び、B棟の807…」
頭がくらくらする。
ヒマラヤの山頂みたいに空気は薄く感じるし、密漁船に乗った時みたいに足元は覚束無い。
アマツが何を言ってても、言葉はぽーっと右から左へ乱反射して抜けていく様だった。
「…そうか、んじゃあ今日の検診はここまでだ。…次もリハビリ頑張れよ、アイジー。」
「……うん…」
アイジーと呼ばれる度に、甘い反響が脳内で跳ねる。
ドラッグにもある程度の耐性があるボクだけど、この薬物は…あまりにも…やばいや。
「それじゃ、また明日な。」
アマツがすっくと丸椅子から立ち上がり、背を向ける。
「…！ま、待ってくれ！」
ふと、一抹の寂しさが我慢出来ず、呼び止めてしまった。
アマツはぴくりと立ち止まり、数瞬後に薄らとした笑顔で振り向く。
「どした？アイジー。」
「…あ、あの…ボクもドク……アマツの事……名前で呼んでもいいかい…？」
何か、ボクも彼に対してトクベツが欲しかった。
アマツは少しだけ考える様な表情を作ったが、すぐに元のにこやかな顔に戻ると、爛と優しげに言った。
「…ああ。いいぜ！」
「俺は……そうだな、ま、いいか。義景って呼んでくれ。」
「……！うん！…義景！」
義景はニッコリと笑顔を作ると手をひらひらと裏表させ、今度こそ病室から立ち去った。
「よしかげ…義景……えへ。」
義景が出ていった扉をいつまでも見つめる。
おもちのように熱く膨らんだ頬を両の手で持ち上げれば、指の間から湯気が出てきそうだった。
………
……
…
「…よし、今日はこんなトコか。おめでとうアイジー、これならもう数日後には退院出来るだろう。」
「ほ、ホントか！？義景！」
今日もいつものリハビリが終わり、その後の問診時に義景がポツリと。そんな事を呟いた。
退院…久しぶりの響きだ。ようやく…本当に、本当に長かった。
商船の事故から約一年。
ほぼほぼ寝たきりの状態だったのにも関わらず、ここまで快復する事が出来たのは、スメラギの科学力と義景が支えてくれたからだろう。
そして、退院という事は…全快、完全に元気になるというワケでして…。
「…あ、あの…えーと…義景…その…」
なんだかボクからねだってるみたいでとても居心地が悪い。
でも、そういう約束したもんな。
「…ん？どうしたアイジーモジモジして。トイレなら気にせず行ってきて良いぞ。」
「ン゛！！違う！！！！」
思わず唸ってしまった。
それを見て、義景が思わず吹き出す。
「……く、アハハ！冗談、冗談だアイジー、謝るからそんな真っ赤になって怒るなよ。」
「…分かってるさ、沢山楽しむって約束したもんな?」
スッと。
あの時みたいに義景が耳元で囁く。
シチュエーションもそうだけど、少し思い出してしまい胸が高鳴った。
「ぁ……ぅ、むぅ。」
顔が熱い……。
「さて、とはいえ問診は大事だ。続きいくぜ。」
「う、うん……。」
はぁ、最近こんなのばっかだ。
ボクとしては嬉しいんだけど…。
「治験の部屋は最上階のB棟、角部屋807で間違いないな？」
「そう、だね。間違いないよ…。」
義景はボクの事をどう思ってるんだろ？
「ふむ。んで、テレポーター自体は折りたたみ式であんまりデカくは無いんだっけか？」
「うん…ぼ、ボクがいつも使ってるのは折り畳んで小型化出来て、天井からぶら下げるタイプのやつだったよ…。」
でも…そういう…キ…の、約束をしてくれる位なんだから、きっと彼もボクの事…。
「オーケイ、いつもそこには研究員が常駐してるんだったか。医者はいるのか？」
「い、いや。医者はボクがテレポーターを使う時に一緒に入るからそんな事無いよ。エンジニアっぽい人が2、3人くらいかな。」
ああっダメだダメだ。
頭の中が約束の事で一杯になりそうになる。
顔なんてもう絶対真っ赤だろこれ。
恥ずかしくて更に赤くなりそうだ…うう…。
「フムフム、入室にはカードキーが必要なのか？」
「ううん、確か扉にカメラがついてたから、ボクが映れば開くタイプなんじゃないかな…。」
ど、どうしよう…でももうすぐ退院だろ？
ボクから告…ええでもそんな勇気無いぞ！？
無理無理無理！！
「そうか…よし、アイジー。」
「…！は、ハイ！！」
ほぼほぼ脊髄反射的に喋っていた所に急に名前が挙がるものだから、素っ頓狂な声を上げてしまった。
カクテルパーティー効果ってやつだ…。
「お前、今日深夜に抜け出せたりするか？」
「えっ…う、うん！出来る！出来るけど！？」
「そうか、それならB棟の最上階で2時頃に落ち会えないか？」
「2時！？ま、まぁいいけど…一体なんで？？」
「あン？…あーそうだな…まぁ、色々今まであったけどさ、俺もアイジー見てたらそろそろ我慢出来なくなってきたんだ…。だからさ、退院まで待たずに…そろそろイイだろ？」
切れ長の瞳がニヤリと笑った。
「う、」
僕はその意味を一瞬で咀嚼した。
つまり…人の目を盗んでそういう事を…！？
あ、あああ、遂にこの時が。
「わわ、わ、わかっ、た。」
ボクにはそう言うのが精一杯だった。
蒸気機関みたいになった頭から理性と思考がしゅっぽっぽーと抜けていく。
「ハハ、そう緊張すんな。そんじゃな。夜、楽しみにしてるぜ。」
彼はヒラリと身を翻してウインクをする。
懐から携帯を取り出しつつ、ヒラヒラと手を振って足早に部屋から去って行く彼を、僕は酸欠の鯉みたいに口をパクパクさせつつ見送る事しか出来なかった…。
ああ…ボクは今日、ひとつ大人になります…。
………
……
…
深夜2時。
暗い廊下の中、緊張と興奮で足が震える。
やっとの事でたどり着いた最上階のランデブーポイントには、義景が佇んでいた。
「よぅ、ちょっと遅かったな。」
「ご、ごめん。緊張しちゃってさ…」
わななく正直な心情を吐露する。
義景はそれを聞いてふっと笑い、つぶやいた。
「でも、来てくれて嬉しいぜ。そんじゃ、どっか良い部屋でも探すか…。」
「ん…」
彼はボクの腰に手を回し、闇の中をいざなった。
こうなるともう、伏し目がちで言葉も少なくなってしまう。
暗い廊下をカツンカツンと奥まで歩いていくと、重厚な扉に閉ざされた部屋がひとつ。
ボクがよく知るテレポーターの部屋だ。
「うっし…ココにしよう。」
「…ん………え？」
は？？
ちょ、ちょっと待って。
ここは昼夜問わずエンジニアが詰めている筈じゃないか…！？
そんなトコでし、しようだなんて何考えてるんだこいつは？？？！
そんな僕の思いとは裏腹に、無常にも扉はボクを認識してヴンと開く。
狼狽えるボクをよそに、義景はズカズカと進んでいく。
部屋の中には当然、3人程の男性…テレポーターエンジニア達だ。
皆、夜勤で乾いた目を擦り、ぽかんとパソコンからボクらに視線を移す。
通常であれば、こんな深夜時間帯にドクターとクランケが来るはずが無いから当たり前の反応だ。
そして部屋の中央には天井から吊り下げられたテレポーター。
今は電源等のコード類は外され、その楕円はだらし無く口を開いている様に見えた。
「ちょ、ちょっと待ってって義景！いくらなんでもこんな所で…！」
「ハハ…ちょっと静かにしててな、アイジー。」
義景がシーッと指を唇に当てる。
それが何を意味しているのか分からなかったが、その悪魔が誘う様な低音ボイスにボクは締め付けられ、何も言えなくなってしまう。
義景はそのまま一歩前へ出ると、徐に叫んだ。
「俺はこのアイゼクトの経過管理ドクター、尼野だ！彼女にテレポーター使用試験を受けさせたのは誰だ！！」
「!?」
は？？いきなり叫んでどうした義景！？
ていうか誰だよ尼野って、噛んだのか？？…などと言う暇も無く、普段からは想像もつかない鬼の形相で叫ぶ義景。
その気迫に流石のボクも気圧されてしまう。
義景が一番近くにいた若いエンジニアの胸倉を掴む。
「お前か！！？？」
「い、いえ！！私なんか下っ端で何の権限も」
「お前達の所為で彼女の身体はボロボロだ！！！分かってんのか！！！」
義景は間髪入れずに顔を軽くはたく。
と、同時にエンジニアが白目を向いて倒れた。
「…ちょっ」
「な、何してるんですか！？」
「あン？いや…俺は何もしてねーよ。どうやらビビり過ぎて気絶したみてーだな、情け無ぇ。」
残った2人のエンジニアが狼狽える。
義景が言っている言葉の意味が分からない。
一から十まで分からない。
けど、一つだけハッキリ分かる事がある。
この義景という男、異常に喧嘩慣れしている。
今、エンジニアに行った小突き、僕にはその技術力の高さが垣間見えてしまった。
彼はインパクトの瞬間、手根のあたりを先に持ってきて、エンジニアの顎先を強打していた。そうすると何が起こるか。
揺れた顎は対角にある脳を最大効率で揺らす。
脳は頭蓋内で大きく揺れた事により瞬時に脳震盪を起こし、今目の前で起こったように意識が闇に落ちるのだ。
一介のドクターが原理理屈を知っているのはなんら不思議な事では無い。
だが、瞬時にそれを実証出来てしまうのなら話が別だ。
義景……君は一体何者なんだ？
「んで…そこの二人、お前らか？このポンコツを作ったのは」
コンコンと、義景がテレポーターを指でノックする。
「い、いえ…僕達はただの保守員でして…」
「ハァ…なら話にならねぇ。ぶっ倒れたコイツは俺が面倒見とくから、お前らはさっさと責任者呼んでこい。」
「え、えぇ！？…し、しかしこの時間じゃあ内線は不通ですし、権限のある社員も暫く遠い社員寮に帰寮しておりますし…」
「だったらさっさと突っ走ってでも引き摺ってこい！！医療器具も全部用意してな！！」
「え、あ、は…はい！！」
気圧された保守エンジニア達は、着の身着のまま部屋から飛び出していく。
暫くすると彼らの走り去る音も止み、辺りには久方振りの静寂が戻った。
全く以て何が何だか分からない状況だったが、二人で甘い時間を過ごすのは難しそうだという事は、嫌でも分かってしまう。
義景はといえば、倒れたエンジニアには目もくれず、テレポーターへ円形のシールをペタペタと貼っている。
なんだか嫌な予感がする。
ボクは震える声で彼に話し掛けた。
「な…なぁ義景…」
「ん？あぁ…悪いな、アイジー。」
シールを張り終わった義景が振り返り、ニッコリと笑う。
よ、良かったいつもの彼―――
「ごめんな、お前の事は、利用させて貰った。」
――は？
眉間の間を厭な汗が伝う。
「まぁ…もう会うことも無いだろうし、ネタばらしといこうか。」
「先ず…さっきの尼野ってのは、俺がこの病院に潜り込んだ際に使った偽名だ。」
「察したかもしれないが、俺は詐欺師だ。規模の大小はあれど、人を騙して食い扶持を繋いでる。」
「今回は特にデカい案件でな。スメラギが新規開発したテレポーターを奪うっつー、いち詐欺師にゃ苦重が過ぎる案件だった。」
彼の言葉が脳内でリフレインする。
詐欺師…？義景が…？
「此処まで来るのは長かった…準備期間も含めれば一年は掛かったんじゃないか？」
「潜入は簡単だったんだけどな、肝心のテレポーター関連の情報が全く出てこなかった。」
「だけど、最後のピースをアイジー、お前が埋めてくれた。」
「数少ない治験の被験者がお前で良かったぜ。」
ど……どういう事だ…？？
また僕は…利用されて裏切られたのか？
わなわなと、体中が情動で揺り動くのが分かる。
「あ、そうだ。さっきはああ言ったが、アイジーの身体は健康そのものだぜ。」
「退院ももう出来るのは嘘じゃない。おめでとう。」
違う、そこじゃない。
熱が、ゆらゆらとこめかみあたりから立ち上ってくるのが分かる。
「…な……なぁ義景……」
「あン？」
「…君が僕にかけてくれた言葉…どこからどこまでが…”嘘”だったんだ…？」
その問いに、義景は少し眉を潜めて考える。
「んぁー…そうだな…」
「…悪ぃ、9割方嘘だ！」
「………きぅ……わり……」
つまり…あの甘言も…ボクに気が有りそうなあの言葉も…
ピキンと、何かがキレる音がした。
こいつは…こいつはつまり…
ボ ク の 純 情 を 弄 ん だ 訳 だ な ？
「………ヨオオオォォォォオオシカゲェェェェェエエエエエエ！！！！！！」
生まれてこの方出した事も無い様な怨嗟のシャウトが、口を割いて轟き出る。
ビリビリと室内を音が反響し、余裕で嗤っていた義景も、少々ドン引きで顔を引き攣らせる。
「…あ、アイジー、お前細い身体でそんな声出せたんだな…」
「お前、お前！お前！！お前！！！！！！！ボクの…ボクの純情を！！！！絶対許さないからな！！！！」
ボクは固いタイル床を力任せに駆り、怒りに身を任せて彼へ距離を詰める。
「うっわマジかよコイツ、おいジル！！」
KABOOOOOM！！！！！！
義景が耳に指を当てて叫ぶと、同時に天井が大爆発を起こした。
ガラガラと崩落が起こる中、テレポーターと繋がった天井だけは綺麗に形を残し、さらにその上には太いワイヤーが伸びる。
はるか夜空の上空には黒いシルエットが見えた。
崩落する瓦礫を避けつつ確認している為に視認はし辛いが、恐らくあの大きさはチヌーク、輸送ヘリだろう。
ああそうかいそういう事かい。
話の流れからだいたい察した。
つまり、今とんでもない大事を行っているこいつらは義景の一派であり、ボクを散々利用した結果、テレポーターを輸送ヘリで奪取しようとしている訳だな？
…正直ボクは正義の味方でもないし、身体もほぼ治った今、こいつらがテレポーターを奪おうが何を奪おうがどうでも良い。
ただ…ただ一つだけ…ボクの純情を奪った義景だけは…義景だけは！！！
絶対に許さん！！！！！！！！
義景は楕円のテレポーターの縁に足を掛けて立つと、ニヤリと嗤った。
「わりいなアイジー！お前と過ごした数か月、割と楽しかったぜ！！！」
「ジル！飛ばせ！！」
ガラガラと瓦礫をまき散らしながら、テレポーターと義景が空に浮かぶ。
「待てやコラアアアアアアアアアア！！！！！！！」
完全にキレ散らかしてアドレナリンの塊になったボクは、狼の如きケダモノになっていた。
空から落ちる大きな瓦礫を次々に蹴り上がり、義景へと一気に距離を詰める。
「ゲッ！？嘘だろアイツ、何者だよ！！？あんなヤベー奴だなんて聞いてねーぞ！！」
先程よりも明らかにドン引いた義景が眼前に鮮明に映る。
「ボクの純情を！！！！！！！！返せぇぇえぇえええええ！！！！！」
こぶしに力を込めて、思い切り引き絞る。
そして一瞬の間を置いた次の瞬間、ボクの右腕は容赦無く義景に振りかざされた。
「ちっ！」
思い切り身を引いた反動か、義景は若干バランスを崩し掛けたものの、何とか堪えてボクの拳を避ける。
ヒュッ
ボクの拳は手応え無く白衣に当たり、虚しく空を切る。
運動エネルギーを失った身体は遂に、夜空から自由落下を始めた。
脳内物質の過剰分泌による時間感覚の鈍りか、ゆっくりと遠くなっていく義景。
彼は冷や汗を袖で拭うと、薄ら笑って言った。
「悪いなアイジー！俺ぁ意外といい歳してると言ったが、あれも嘘だ！まだ俺は18だし、女なら少し歳下の17位が良い！」
「15とはいえまだまだお前はガキだ！お前をからかうのは割と楽しかったぜ！マトモな恋愛して、次は騙されるなよ！じゃあな！！」
「…くたばれ！！！！！！」
ボクは中指をいつまでも奴へ立てつつ、地へと落下した。
数秒後、ガサガサという背中を襲う衝撃と共に、ボクは意識を落とす事になった。
………
……
…
バラバラバラ。
夜闇の中で安定した飛行を続ける中、座席に座った男が笑う。
「オイオイとんだ愛憎劇だったな。あんないたいけな少女を騙すなんてお前も隅に置けないな、色男。」
色男と言われた赤毛の男は、つまらなそうに愛想笑いした。
「ハ、何がだ。人を騙すなんていつもの事だろうが。」
「フフ…だな。まぁいい。それはそうと…クライアントへの報告はさっさとやっておけよ。」
「…ああ、分かってる。」
赤毛は白衣の内ポケットをまさぐる。
が、すぐに訝しんだ表情をすると、体中のポケットをバババと探る。
「ん？どうした？」
男が不思議そうな顔をする傍、恐る恐る赤毛が白衣の内側を広げる。
するとそこには、鋭利に一閃された穴が、内ポケットを食い破っていた。
「……………はぁ……あンの大馬鹿野郎……」
赤毛の男は深くため息をつくと、心底疲れた様に座席へ沈み込んだ。
………
……
…
- 幾ばくかの後 -
『…もしもし』
『……ああ、そうだ。』
『……アマツ？…いや、ボクは……そうだな、その相棒といった所だ。』
『……ああ、問題無い。首尾はまぁ…うまくいったよ。』
『ボクか…………うん、"狼"とでも呼んでくれ。』
『ハハ……恩に着るよ。』
『……ところでさ……ランデブーポイントはどこだっけ？』
to be continued...
外見
銀髪のショートカットと琥珀色の瞳
技・特殊能力
長いので折りたたみ済み
■アパッチリボルバー：
拳銃としてもナイフとしてもメリケンサックとしても使える。
■ずるずるい：
ずるいので拘束されたらこれでずるずる抜けれる。
関節外しと同じ。
■シャドー・フロー：
隠れる。何気取った名前にしてるんだ。
■シノビダッシュ：
忍び歩き。別にザコに会わなくなるとかそういうのは無い。
■気付き：
セルフ気付け。
■隠密：
DEX×○系の隠密に失敗した時、これで二度振り出来る。
■魅惑：
言い包めとしても使える魅惑行為。
■芸術(左京さん)：
警察関連の調べ物、調べ物を振り直せる。
クリティカル情報を左京さんが持ってる可能性ある。
■芸術(狡猾)
セッション開始時一人相手を指定。
探索時：
指定者がダイスを振った時、自分は狡猾を振り、成功したらその出目扱いに出来る。
戦闘中：
戦闘技能の前に振り、後続で振る自分の同系統技能ダイス出目を一つだけ相手に合わせれる。
・セッション開始時に1人指定、セッション終了まで変更不可
・合わせられるダイスは1d100ダイスのみ（1d50等は不可）
・ダイス動かせる人の出目は参照できない（素の出目を参照する）
・出目を合わせるだけなので技能値はアイゼクトのものを参照
拳銃としてもナイフとしてもメリケンサックとしても使える。
■ずるずるい：
ずるいので拘束されたらこれでずるずる抜けれる。
関節外しと同じ。
■シャドー・フロー：
隠れる。何気取った名前にしてるんだ。
■シノビダッシュ：
忍び歩き。別にザコに会わなくなるとかそういうのは無い。
■気付き：
セルフ気付け。
■隠密：
DEX×○系の隠密に失敗した時、これで二度振り出来る。
■魅惑：
言い包めとしても使える魅惑行為。
■芸術(左京さん)：
警察関連の調べ物、調べ物を振り直せる。
クリティカル情報を左京さんが持ってる可能性ある。
■芸術(狡猾)
セッション開始時一人相手を指定。
探索時：
指定者がダイスを振った時、自分は狡猾を振り、成功したらその出目扱いに出来る。
戦闘中：
戦闘技能の前に振り、後続で振る自分の同系統技能ダイス出目を一つだけ相手に合わせれる。
・セッション開始時に1人指定、セッション終了まで変更不可
・合わせられるダイスは1d100ダイスのみ（1d50等は不可）
・ダイス動かせる人の出目は参照できない（素の出目を参照する）
・出目を合わせるだけなので技能値はアイゼクトのものを参照
武器など
■アパッチリボルバー
刺す、殴る、撃つが出来るすごいやつ。
暗殺者御用達アイテム。
刺す、殴る、撃つが出来るすごいやつ。
暗殺者御用達アイテム。
コネクション
・次百
取引先兼友人。データセンターのデータを横流ししている。
最近やつれている気がして少し気掛かり。
・桜咲 ハル臣
行きつけのサロンの店主。アンチエイジングはここから。
独り身だと思って恋愛指南をしたのに彼女持ちなんて聞いてない。
・桜咲 炸羅
行きつけのサロンのネイリスト。粗暴だけど、話を興味津々で聞いてくる様はワンコみたいで可愛らしい。
ちなみに内容は簡単な男の落とし方。
・天兜 義景
あ…あれぇ…？？なんかいつの間にか相棒からこれは…こここ、こいび…に、ランクアップしてないか？？
え？そう、そういう事でいいんだよな？？え？？あれ？？
・萌絽羽
よく出来た後輩。割と高頻度でケンカするが、なんだかんだで一番目を掛けている。
色々と先を越されそうで焦っている。
たまに辛辣な事を言われて泣きそう。
取引先兼友人。データセンターのデータを横流ししている。
最近やつれている気がして少し気掛かり。
・桜咲 ハル臣
行きつけのサロンの店主。アンチエイジングはここから。
独り身だと思って恋愛指南をしたのに彼女持ちなんて聞いてない。
・桜咲 炸羅
行きつけのサロンのネイリスト。粗暴だけど、話を興味津々で聞いてくる様はワンコみたいで可愛らしい。
ちなみに内容は簡単な男の落とし方。
・天兜 義景
あ…あれぇ…？？なんかいつの間にか相棒からこれは…こここ、こいび…に、ランクアップしてないか？？
え？そう、そういう事でいいんだよな？？え？？あれ？？
よく出来た後輩。割と高頻度でケンカするが、なんだかんだで一番目を掛けている。
色々と先を越されそうで焦っている。
たまに辛辣な事を言われて泣きそう。
略歴
0歳：ソ連崩壊、不況と先行き不安の中、両親に森へ捨てられる。
シベリア狼のグループに拾われ、野生児として育つ。
5歳：狩狼の一員として厳しい環境の中育つ。
ある日、狩りのターゲットにした相手が不運にもロシア軍特殊部隊であり、狼のグループは壊滅。
自身も拘束され、"鹵獲"された。
6歳：読み、書き、会話が可能になる。国際知能指数試験によりIQが158である事が分かると、
新設された青年将校隊の予備役として登録される。
7歳：戸籍登録が存在しない為、被検体として本格的に教育プログラムを実施開始。
「ルプス」というコードネームを与えられる。
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17歳？：ノウムを震撼させる大事件勃発、悪魔との再開。
17歳？：悪魔と拉致られ大脱出。危うくセンシティブだ。
17歳？：誰かに裏垢がバレた気がする…が、気の所為か。それにしてもノウムの男連中は信用できない。
29歳：ん、んー？？なんかボク、誘拐されてたっぽい？？しかも目が覚めたと思ったら義景とゆゆゆゆぴわ交換してるし何…何！？…今回は信じていいの？
↓
依頼のあった黒忌市にて、未曾有の大災害がノウムを襲う。
その際にアイジーを身を呈して救助した事により、義景が死亡する。
(直接死体を見た訳では無いが、彼女の持つ特殊な指輪の効力により把握してしまった。)
こんな気持ちは知りたくなかった。
ひとしきりパニックを起こした後、彼女は心を壊してしまった。
その後、色々と悶着して生きた義景を取り戻したものの、自身の中で辛い記憶として脳内にこびり付いて離れない。
今でも頻繁に最後の瞬間を夢に見て、嘔吐してしまっている。
こんなの僕らしくない、コメディリリーフとして突っ込まれてるくらいがお似合いなのに。
僕は馬鹿だった。気恥ずかしいからと、想いの半分もあの時言えなかった。
洗面台の縁を掴み、銀髪の女を睨む。
アイゼクト・フロー、2……17歳。よし、まだいける。
今日も元気だ。
シベリア狼のグループに拾われ、野生児として育つ。
5歳：狩狼の一員として厳しい環境の中育つ。
ある日、狩りのターゲットにした相手が不運にもロシア軍特殊部隊であり、狼のグループは壊滅。
自身も拘束され、"鹵獲"された。
6歳：読み、書き、会話が可能になる。国際知能指数試験によりIQが158である事が分かると、
新設された青年将校隊の予備役として登録される。
7歳：戸籍登録が存在しない為、被検体として本格的に教育プログラムを実施開始。
「ルプス」というコードネームを与えられる。
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17歳？：ノウムを震撼させる大事件勃発、悪魔との再開。
17歳？：悪魔と拉致られ大脱出。危うくセンシティブだ。
17歳？：誰かに裏垢がバレた気がする…が、気の所為か。それにしてもノウムの男連中は信用できない。
29歳：ん、んー？？なんかボク、誘拐されてたっぽい？？しかも目が覚めたと思ったら義景とゆゆゆゆぴわ交換してるし何…何！？…今回は信じていいの？
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依頼のあった黒忌市にて、未曾有の大災害がノウムを襲う。
その際にアイジーを身を呈して救助した事により、義景が死亡する。
(直接死体を見た訳では無いが、彼女の持つ特殊な指輪の効力により把握してしまった。)
こんな気持ちは知りたくなかった。
ひとしきりパニックを起こした後、彼女は心を壊してしまった。
その後、色々と悶着して生きた義景を取り戻したものの、自身の中で辛い記憶として脳内にこびり付いて離れない。
今でも頻繁に最後の瞬間を夢に見て、嘔吐してしまっている。
こんなの僕らしくない、コメディリリーフとして突っ込まれてるくらいがお似合いなのに。
僕は馬鹿だった。気恥ずかしいからと、想いの半分もあの時言えなかった。
洗面台の縁を掴み、銀髪の女を睨む。
アイゼクト・フロー、2……17歳。よし、まだいける。
今日も元気だ。
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